昭和19年4月3日 三次中学の先輩・陸軍士官学校生徒のYさんからの手紙

 

同級生達から三郎への便りが連日届く中、中学・陸軍予科士官学校の先輩であるYさんからも葉書が届いている。

同郷の後輩に対する激励の様な内容であるが、「将校生徒」とはいえ軍に身を置く立場としての内容となっている。

 

昭和19年4月3日 先輩Yさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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振武台遥かより春が訪れて、元気一杯練武学修
中の御事と存じます。小生益々元気にて勉強中。
四月下旬御面接の機を得ることが出来ると思う。
元気で真面目に御奮斗を祈る。入校以来ひしひし
感じているだろう皇恩の如何に我等将校生徒
に厚きかを。深き御めぐみに応え奉るべく、この超
重大時局に将校生徒の発足をした君達の
自奮自励を祈る。佐々木、中西が帰ったら
全部で話そう。それまで元気で。 失礼
四月三日
************************

Yさんは三次中学の先輩でありかつ、陸軍予科士官学校(この時点では既に神奈川県の陸軍士官学校生徒)の先輩でもある方で、父(芳一)からも「Yさんに負けない様頑張れ!」と目標にされるほどの優等生であったらしい。
手紙の文面を見ただけでも軍人としての矜持とも云うべきしっかりとした教育訓練を受けている事が想像できる。

ただ、書面から感じられるような生真面目な秀才タイプの人物だったのであろうか?
上述したようにYさんは当時、神奈川県の陸軍士官学校(相武台)の生徒であり、今回の葉書は「相武台から振武台」への軍関係機関間での郵便物であり、かなり厳しい検閲がされていたものと思われ、あらぬ疑いを懸けられないようにある程度「良い子」を装っていたのではないかと思う。
これら軍関係機関間の郵便物には、家族や友人からのものにはない【検閲済】の印が押されており、送る側も受取る側もそれなりの神経を遣っていた筈である。

「四月下旬に佐々木、中西(このニ方も三郎の先輩?)も含めて話をしよう」とあるが、そこではひょうきんな先輩になったりしたのかもしれない…

 

昭和19年4月3日 三郎から父(芳一)への手紙

 

今回は三郎から父(芳一)への手紙。

入校後1カ月が経過し、漸く学校生活に馴染んだ頃であるが、逆に教科や訓練が本格的に忙しくなって便りを書く暇もない状況の様子。
漸く二回目の外出日に芳一の知人宅に伺い、手紙を認めている。

 

昭和19年4月3日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年4月3日 三郎から芳一への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
 康男や三郎が上京した際にいろいろとお世話になっている。

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大変長らくご無沙汰致しましたが皆様お変りない事と思います。
私も其後元気で学科に術科に励んで居りますから御安心下さい。
芳子合格の通知、父上様母上様の両通共確かに受取りました。
少し便りが遠のいたとの事、何やかやと忙しくなり隙が少しなくなりましたか
ら悪しからず。手紙が無い時は元気な時とお思い下さい。
今日は四月三日。神武天皇祭第二回目の外出です。「この手紙も
便箋も封筒も皆■■様に戴き書いて居ます。■■様方で。」
今日は少しお願いがあります。それは成るべく四月三十日迄に■
■様方へ御送付願い度いのですが、出来得れば、それは、文法教
科書、詩集(父上様が持って居られると同じ様なのを私が持って居ましたから)
それに康男兄さんの古い襟布二、三枚。それから、下痢止め腹薬(アイフ
等)、感冒薬等を少々と、便箋、封筒、切手(七銭少々、一銭三十枚)等、それ
から白の手袋(軍手でない、目の小さい)があれば、一つ二つ。康男兄さんのお古
でよろしい。なければ良いです。写真も五月中旬位迄には出来上り、お送り
致します。夏季休暇も今の所、八月中旬にある予定です。
兵科志望もそれまでにあるかもしれませんが、お考え願います。
それから、■■様方へ何か良い様にお願い致します。これも一緒で
良くあります。外出すればかならず立寄らねばなりませんから。
それに度々御馳走に與りますから。
では、今日はこれで筆を置きます。

芳子へ
先づ、お芽出度う。多分大丈夫とは思いながらも発表まで
は落ち着かず、少々は心配していたが、合格したとの事、安心した。
入校日ももうすぐだろうが、入校したら皇国の女学生として、
勉強に、勤労に邁進して行きなさい。
兄さんが夏休みに帰る時には、立ぱな女学生になって居る事だろう。
写真にでも写ったら送れ。
では元気で明朗に通学せよ。
では又
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今回投稿した手紙は表裏両面に書かれており、通常通りにスキャナーで読込むと裏面の文字が透けて非常に読み辛かったため、黒い用紙を被せてスキャンした関係で全体的に暗い感じになってしまった。
文中に書かれているとおり便箋が少なくなったので節約しているのであろう。

「今日は四月三日。神武天皇祭第二回目の外出」とあるが、この日は初代天皇である神武天皇の崩御日にあたり当時は祭日とされていた。
ネットでググてみたところ、『日本書紀』によると崩御日は3月11日であるが、これをグレゴリオ暦に換算して4月3日としているとのこと。
初代天皇の崩御日が ”3月11日”と云うところに因縁を感じるのは小生だけだろうか…

芳子の女学校合格への祝辞も送っている。
他の家族同様に”一安心”と云うことである。

兎にも角にも久し振りの休日外出に羽を伸ばしている三郎であった。
 

昭和19年4月7日 父(芳一)から三郎への手紙

 

前回投稿した三郎からの手紙に父芳一が返信した手紙。

この便箋はA5の両面書用なのだが、以下画像を見て頂くと分かる通り元々A4のものを半分に切っていると思われる。
しかも真ん中に「三原用箋」の印刷もされており、オーダーメイドの様である。
銀行マンであった芳一は結構細かい部分に”こだわり”があったのかも知れない。

昭和19年4月7日 父芳一から三郎への手紙①
昭和19年4月7日 父芳一から三郎への手紙②

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際には大変お世話になっていた。

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■■君の所から四月三日に出した手紙、今日到着
した。無事で勉学しているそうで父母共安心だ。
芳子も五日に入学式。今日で三日行った。三月中旬
頃から少し腎臓炎の気味で黒潮醫院で薬を貰って
居る。お母さんは大分元気になった。
三月二十一日に■■君の所へ行った由、その通知は四月の四日に着
した。此常郵便物が馬鹿に遅れる。■■さんが三月二十六日に
出してくれた小包は未だに着かぬ。
■■さんの所への事は承知した。何か考えてよい物を送
って置くよ。白手袋、エリカラーは康男兄さん所へ
頼んで送って来たら直ぐ■■さん所まで届けて置く。
其他の品物も一緒に届けてやる。書面小包で発送したら
速達便で通知するよ。
影山順六さんより、餞別二円先日頂いた。餞別を貰った先へボツボツ
ハガキでも出せよ。
長山の昇さん、三十日の教育召集で四月六日に広島の西部十部隊へ入隊した。
康男兄さん二日の晩に帰省。四日朝早く帰隊した。写真一枚送る。
お前の写真が出来たら送ってあげよ。お母さんも早く見たいらしい。
三中の上級校パスの状況を聞いたか。山縣は薬専へ行くらしい。友達へも時々
便りせよ。三次も大分暖かくなった。ボツボツ桜も咲くだろう。雨が多いに困る。
腹がへるだろう。食事は如何か。身体に気をつけて病気せぬ様にせよ。
又手紙をやる。今日は此れでやめる。      父より
三郎様
***************************

「此常郵便物が馬鹿に遅れる」と愚痴をこぼしている。
この手紙が出された当時は未だ本土空襲も始まっておらず、鉄道が壊滅した状況にはなっていなかった筈だが、物資不足や戦時統制の影響で列車の本数が激減した時期でありその影響と思われる。また、郵便物の「検閲」も影響していたかも知れない。

因みに今回の手紙は「速達」で出され、4/7消印で、三郎が受取ったのが4/11となっている。
また、今回の手紙には「検閲」の印はなく検閲された形跡は見られない。

ご近所さんの徴兵状況や三郎の同級生の進学状況なども記されているが、改めて思うのが当時の人々のコミュニケーション力と情報収集力である。
戦時中は「隣組」の影響もあり、社会生活を営む上ではそれなりのコミュニケーション力とそれに伴う情報収集力が必要であったと思う。

小生が子供の頃、夏休みに三次に遊びに行ったときには、芳一(祖父)がよく散歩に連れて行ってくれたのだが、すれ違う人たちの大半が知合いで
「えー天気でがんすのぉー」
「旦那さんはどうしよってん?」
などと、あちこちで会話をしていたことを思い出す。

 

昭和19年4月8日 母千代子から三郎への手紙と芳子の歌好き

 

前日に父芳一が出した手紙に続き、今回は母千代子からの葉書。

一緒に出せば良いのにと思うのだが…
あまり夫婦仲は良くなかったのか?
今更ながら心配してしまう孫の小生である(笑)

昭和19年4月8日 母千代子から三郎への手紙

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際に大変お世話になっていた。
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日増しに暖くなって三次の桜も色どり、ふくらみを
見せて来ました。其後変りなく元気で毎日
楽しい事と存じます。家の方にも相変らず
暮して居ります。兄様二人共三日四日と帰りました。
お前も外出があった由うれしかったでしょうね。
芳子も目出度く女学校へ入学出来て毎朝
七時には家を出ます。それから去る六日に昇さんは
十部隊へ教育召集で入隊された。家内の者は
まだ和歌山に残りて居ります。一ヶ月後に定りましょう。
康男兄さんの写真を近日父様より送付されます。
■■様方へは又御礼を致しますから心配せぬ様に。
日々元気で楽しく送りなさい。  サヨーナラ  母
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三郎が上京して一ヶ月以上経過し、さすがに千代子も一時期の不安定な状況からは脱したのであろう。手紙の内容も至って普通のものになっている。

前日の父芳一の手紙にもあったが「昇さん」とはどうやら千代子の親戚らしく、三郎の”いとこ”にあたる青年のようであるが、小生も詳しい親戚関係を知らないので多少眉唾である。

芳子(小生の母)の歌好きに関して…
拙ブログ開設のきっかけとなった今回の遺品整理の時点で知ったのであるが、母は女学校で声楽部に所属していたらしい。
そう云えば小生が小学生の頃、店を閉めたあとに姉(小生より3学年上)と一緒に音楽の教科書や副読本(童謡などが収載された歌本)を見ながら2人で合唱していたのを思い出す。
当時は見ていて「恥ずかしい」感じであったが、それだけ歌・音楽が好きだったのであろう。

芳子 女学校音楽連盟

最近、高校3年の愚息がヘッドホンでネット動画を見ながら結構な大声で流行りの歌を唄っているのを聞くにつけ、ご近所様に「恥ずかしい」と思いながらも「隔世遺伝か?」と考えてしまう小生なのである。

 

昭和19年4月8日 三次中学同級生のFさんからの葉書

 

今回は三次中学同級生のFさんからの葉書。

Fさんに関しては以前(5/6)の投稿で三郎が陸軍予科士官学校へ入校した直後の葉書を掲載しており、それに続くもの。

今回は「封緘葉書」で4面に亘って書かれており、実質は”手紙”である。
※以下に全体像も添付

昭和19年4月8日 Fさんの葉書①
昭和19年4月8日 Fさんの葉書②
昭和19年4月8日 Fさんの葉書③
昭和19年4月8日 Fさんの葉書④

「封緘葉書」の全体像(2枚)

昭和19年4月8日 Fさんの封緘葉書全体①
昭和19年4月8日 Fさんの封緘葉書全体②

解読結果は以下の通り。

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お葉書有難とう。元気の良い書振りに安心
した。私もその后元気だ。安心して呉れ。然しその
元気も普通並みではない。と云うのが此の上もない
憧憬の的であった高校突破の野望が一瞬に
して水泡と化したのである。あゝ実に我が胸には
敗残の憂い濃く、頬を伝うるものは唯涙のみだ。
而れども、今では我が実力の足らざるを深く思い、奮
起を促している様な始末だ。して来るべき高校
受験に備える心算だ。私の頭は舊(旧)世と変わらない
と思うかも知れないが、(私の心には今日の国家を背負うて
立つべき覚悟は充分持っている。)私は再び高校
突破の野望を抱いている。之も一旦定めたる前途を
変更すべきは私としてとるべき道ではないと思ったからだ。
扨て、貴方の要求通り合格者の報告をするならば、
広沢孝一郎(岡大医学部専門部)、八木(広髙工・機械
科)、桑田(広縣師)、土屋(広縣師)、川崎(宇部工・工業
化学科)、上川(宇工・機械科)、森原(平壌師)、宗川(朝師)、
広畠(通信???)、山縣(熊本薬専)、秋本(徳島高工)、山田
(山梨高工)
という風に誠に近代にない好成績を治めている。これは下
級生に対し威厳を示す上に於ても大きな影響を及ぼ
すであろう。高校を突破の栄冠を得たものは旧五年
の土井一名のみにして、実に面目ない次第だ。けれども
来年こそは貴方の面に笑をたたえるべく、母校から高校突破の功
を数名に倣いて奏する決心だ。貴方は陸士の大分
状況を知って、緊張の中に愉快な一日を過ごしていること
であろと思う。何卒将校生徒としての本分を充分全
うされんことを祈る。本年も陸士・海兵の志願者は百人
にも及んでいるのではないかと思う。意を強うして後輩の
入校を待たれよ。次に私は此の度、親戚の事情に依って
親戚に移住することとなったのだ。少々気が落ちつかず困って
いたが、慣れればそうもない。
長々と下らぬことを述べたが、先づは一報迄だ。至極
身体に留意し本分に邁進されたし。
                   さようなら

            この手紙は読み次第
            焼いて呉れ。
                 では又。
**************************

この葉書を読んでいて何となくFさんが”謝っている”様な印象を受けたので、それが何なのかを考えてみた。

Fさんは前回の葉書で
「小生高校突破の野望を抱きしも、之前途を暗澹たらしむる一つにして今後直ちに国家の要望する所に向って再起勉励する」
と書いていたが、残念なことに(旧制)高校への合格は成らなかった。

前回の葉書の内容の通りであれば、「今後直ちに」陸軍予科士官学校か海軍兵学校の受験に向けて「国家の要望する所に向って再起勉励する」筈なのであるが、来年の(旧制)高校受験を目指して中学5年生に残ることを選んだようである。
おそらくFさんはこの状況を、三郎始め同級生たちに
「貴様はこの国家の非常事態に於いてお国のために軍関係の学校を受験しないのか?」
と思われるのではないかと感じ、それを「後ろめたい」と思う気持ちが文章に滲んだのではないかと想像する。

現代であれば何の問題もない事であるが、戦時色一色に染まった当時(特に血気盛んな若者達)の状況からすれば仕方のない心情であったのかも知れない。
我々戦後世代は、このような雰囲気がどれだけの国民を戦地に向かわせることに繋がったのか、をしっかり感じ反省すべきであると思う。

そんな気持ちだったからこそ文末で
「この手紙は読み次第 焼いて呉れ」
と書いているFさんだと思うが、この葉書を公表した小生を許してくれるだろうか…

 

昭和19年4月10日 三次中学同級生 Yさんからの葉書

 

前回に続き三次中学の同級生からの葉書であるが、今回は薬学専門学校に合格し進学も決定したYさんからのもの。

志望校に受からなかった無念さと、新たな進路への前向きな気持ちとが入り混じった内容となっている。

昭和19年4月10日 Yさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

**************************
三原君、何時も乍ら僕の心配をして貰って実に済ま
ぬ。僕は昨日熊本薬学専門学校の入校式を済ませ
ましたから前のお便りの返事を兼ねて御報告します。
僕は君が通ってから後は本当に青くなる程無茶勉強を
したものです。だから松高は自信満々たる物があったんだ。
然るに天命は遂に僕をして薬専に入らしめたのだ。今は一刻も
早く学校に入り勉強した方がお国の爲になると思って遂
に入校した訳だ。然し入校の上は君に負けぬ様頑張
るぞ!!君は陸の勇者に、小生は化学報国だ。君がそれ
を使用する時が来る日が待ち遠しい。又、医大に行って
君が勇戦奮闘した体を僕が診てやるのかも分からない。然れ
ども、目的は奉公滅私只一つ!!    では又。
**************************

これまで何人か三次中学同級生の手紙・葉書を投稿したが、実際に上級学校への合格・進学が決まった方からのものは初めてだと思う。

熊本薬学専門学校と云えば現在の熊本大学薬学部の前身であり十分に難関であると思うが、目指した松高(旧制松江高校と思われる)は残念ながら突破ならず、悔しさが滲んでいる。

小生などの戦後世代には解らないが、当時の旧制高校とはそれほどまでに憧れの存在であったらしい。

余談であるが、小生が中学~高校生の頃通っていた私塾の先生は、旧制一高~東大という超エリートコースを通った人であったが、常々
「東大なんて大した大学じゃないが、一高は秀才の集まりだった」
と口癖の様に仰っていて、しょっちゅう[嗚呼玉杯(一高寮歌)]をカセットテープで聞かされたものである(笑)。
因みにその先生は公職追放で職を追われ、地元で世捨て人となって私塾を経営されていた。
本来、小生の様な勉強嫌いが入れるようなレベルの塾ではなかったのであるが、小生の出来の悪さを看過できなくなった母(芳子)が祖父(芳一)の伝手を頼って見付けてきた塾であった。
レベルが高すぎてついて行けなくなり高校2年の時にドロップアウトしてしまったが、今ではいい思い出である。

 

昭和19年4月11日 三次中学同級生 MOさんからの葉書

 

今回は以前にも投稿したことのある三次中学同級生MOさんからの葉書。

以前の投稿の際に「小生と同じくあまり達筆でないのでちょっと安心した」と大変失礼なことを書いてしまったが、今回の葉書では御本人自ら「小生至って字がへたで、困まる御免」と書いておられ、またまた「ちょっと安心した」次第である。

昭和19年4月11日 MOさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓
お手紙有難う。君も今頃は大分慣れて来たように手紙によく表
われているから、さぞかし変った事だろう。小生至って元気でおるから
安心してくれ。さて、この間からの各學校の合格者をすこし言ってみようか?
ぺス君、縣師にはいったよ。ちいとこっけい。あっははは…。
山縣、熊本薬専、三宅、桑田、土屋、縣師。広澤、岡山医専。作田、大邱髙
農らへ…。太郎君、東京無線○○へ。五年、大善、広髙工夜。土井、松江高。
立川、三高農。おう、八木が広髙工、高船の両方へ通ってタカブネに行った。
又、五年生は大竹の海兵団へ五日→九日、二十名。十三日→十六日、三十名。この分
へ小生行くことになった。行ってきたものの話では、ものすごいげなあと
へほうたよ。まあ、このくらいだ。小生至って字がへたで、困まる御免。
これは手の先が筆のようになっておれば非常に上手なそうな話だが君
も知っておるようにだ。へへへ…。  さようなら
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「高船(タカブネ)」が何なのか今一つ解らなかったのでググってみた。
正式には「高等商船学校」のことで「船舶運用等海事分野を専攻とする官立(国立)の実業高等教育機関」とあった。

全国で東京、神戸、清水の3校があり、学費が無償であったこと、募集人員が少なかったこと、卒業後は花形職業に就けることなどから元々難関校であったが、戦時下にあっては、徴兵が猶予され卒業後は予備士官に任官されるなどの制度から、超難関校として知られていたらしい。

しかし、これらの優遇がある反面、入校即日海軍予備生徒として兵籍に入り、有事の際は召集され軍務に服する義務があった。
つまり、当時の状況であれば三郎たちと同じく、軍関連の学校に入ったと云うことである。

ただ修学期間は5年6カ月と長く「高船」は戦後も存続していることから、この時に入学された同級生”八木さん”は在学中に終戦を迎えられた筈であり、一旦は死をも覚悟して決めた進路を覆すような状況の中で、その学生生活は波乱に満ちたものだったのではないかと想像する。

「終戦」という事実は戦争遂行を覚悟して軍関係の学校へ進学した若者達にとって、それまでの血と汗の努力を「無」に帰してしまっただけでなく、その将来設計をも大きく変えてしまうとてつもない衝撃であり、それを克服するための労苦は大変なものであったと思う。

戦争を知らない我々は、当時、終戦によって虚無感や敗北感を味わい挫折や自暴自棄に陥りながらも戦後復興の中心となって頑張って下さった人々に心より感謝しなければならない。

 

閑話休題 8月6日 原爆の日

今日は令和になって最初の8月6日
「原爆の日」である。

 

昭和20年8月6日

芳子(小生の母)は当時三次高等女学校の生徒で、午前八時十五分は勤労奉仕をしていた。
あの日の様子を話してくれたことがある。

朝草むしりしよったらね、広島の方が”ピカッ!”と光ったんよ。
「今、広島の方が光らんかった?」
ゆうて皆で話しよったら、そのうち
「広島がおおごとになっとるそうな」
云う噂が流れてきてね、
「どうなったんかね」
言うて心配しとったら
夜になって怪我人が汽車やらトラックやらでいっぱい運ばれてきたんよ。
そりゃ大変じゃったんじゃけぇ。

その後どうなったのかは話してくれなかったのだが、
今回ブログに投稿する関係で当時の状況をググったところ、
以下の記事を見付けた。

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=48894

まさに芳子の同級生たちの記事であり、恐らく彼女も救護にあたった筈である。
「修羅場」だったのであろう…
小生に話さなかったのは、思い出したくない記憶だったのだと思う。

芳一(小生の祖父)は被爆者手帳を持っていた。
直接被爆した訳ではないが、当時広島市にいた次男の敬の安否を確認するために、翌日か翌々日に広島市に入っており、入市被爆者となった。

当時の広島での状況については芳一からも芳子からも聞いておらず、また手紙や書類も残っていない(未だ紐解いていない手紙類もあるが昭和20年3月頃を最後に残っていない様子である)ので想像するしかないのだが、敬は爆心地からは4Km程離れた祇園町と云う所に住んでおり、爆発による直接の被害は受けていなかったと思われる。
しかし、この大惨事は元来病弱であった敬のその後の健康状態に少なからぬ影響を与えたであろう。

三男の三郎は当時、陸軍士官学校(神奈川相武台)在学中で被災していないが、戦後昭和30年頃から爆心地にほど近い相生橋の袂にある「和田ビル」というアパートに住んでいた。

和田ビル

現在の様子は画像の通り古びたアパートであるが、当時は広島の中心地のハイカラなビルで、かなり立派な感じであった。

子供の頃、正月の年始の挨拶に行ったときには、ベランダから間近に見える原爆ドームや真下を走る路面電車を飽きもせず眺めたものである。

 

昭和19年4月15日 三次中学同級生Kさんからの葉書

 

進学・進級結果発表もひと段落し、
各々の当面の進む道が判明した三中同級生からの便りが続く。

今回は陸軍予科士官学校の試験を目前に控えたKさんからの葉書。

 

昭和19年4月15日 三次中学同級生Kさんからの葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 永らく御無沙汰致してすまない。
其後相変らず元気の事と思う。
僕も相変らず作業に元気よくやって居る。
陸士・海兵の入試も近づくし作業はあ
るし、実に忙しく又苦しい。でも、国家の勝
利の爲にと皆全身全霊を打ち込んで
努力している。君も安心して軍務に勉
励してくれ。又今年は四年五年で陸士
志願者が九十数名居る。君の後にどしどし行くぞ。
さよなら
**********************

短いが苦悩と疲労が感じられる文章である。

中学を卒業し上級学校へ進学した同級生に差を付けられ、早く追いつきたい一心で勉強しようにも日々勤労奉仕の肉体労働で疲れ果ててしまう。
しかし、試験の日は否応なしに迫って来る。

「受験なんてそんなもの。厳しいものだ。」と仰る向きもあろうが、戦時下の異常な重圧の下でのストレスは相当なものであったと思う。

「陸士は5月、海兵は7月」と以前投稿した何方かの便りに軍関係学校試験の時期が記されていたが、戦争の影響で前年よりも実施時期が前倒しされたこともあり、焦る気持ちも強かった筈である。

「国家の勝利の爲にと皆全身全霊を打ち込んで…」と表向きは強がっている様に見えるが、間違いなく戦場へ向かうことになる将来を自ら望んではいなかったのではないか…

しかし、”大量に消費される士官”を早急に育成しなければならない国家事情のため、募集枠の拡がったこの年の”士官養成学校”への志願者は大幅に増えていたのである…

 

昭和19年4月15日 妹 芳子からの手紙 「英語」と云う「敵性語」

 

今回は先日無事女学校に合格した妹芳子からの手紙。

入学試験などの影響もあり、約一ヶ月ぶりの便りとなった。

 

昭和19年4月15日 芳子からの手紙①
昭和19年4月15日 芳子からの手紙②

解読結果は以下の通り。

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兄さん、長い間ごぶさた致しました。
おかわりない事とおさっし致します。
私もますます元気で通學してをります。
尾関山の櫻はもうほころびかけています。
十七、八日頃には一せいに咲くように思われます。
女學校の校庭の櫻はもう咲いています。
兄さんの方ではどうですか。
私達はこの十三日十四日十五日は作業で草狩りに行
っています。行先は八次の玉原さんと言う家で、
十四日にはおむすびをいただきました。
女學校は大変おもしろく、又げんかくな所で
す。新しくふえた學科の英語はとてもおもし
ろいです。兄ちゃんの英語の本を本箱から出
して讀んでいます。
朝私は七時頃家を出ます。七時四十分迄に
學校へ行く事になっています。七時半頃學
校へつきます。夕食時に兄さんの思い出話
に花を咲かせて三人でもにぎわいます。
お父さんもお母さんも元気です。
お父さんは庄原へ自轉車で行かれました。
汽車では切府(符)がなかなか買えないので、自転
車の方が便利です。私の元気な所を写真
に写つして送ります。兄さんも早く写真を送
って下さい。   では又。     芳子
************************

我が母らしい、当たり障りのない文章である。

女学校で新たに教科に加わった英語を「とてもおもしろい」と言っている。

ん?戦時下に学校で英語を教えていたのか?

当時英語は「敵性語」として日本全体で排斥されていたと云うイメージがあるが、実態としては法律などで禁止されたものでは無く、戦争によって高まるナショナリズムに押されて民間団体や町内会から自然発生的に生まれたものらしい。

国民的人気スポーツであったプロ野球に於いて
ストライク ⇒ よし一本
アウト   ⇒ ひけ
のように、敵性語から日本語の変更が徹底されたことなどから、国民全体へ波及したような状況を想像しがちであるが、これは極右勢力などから批判されて興行禁止にされることを恐れ、自発的に実施したと云うのが実情らしい。

国会でも「高等教育の現場における英語教育を取りやめるべき」旨の要望が挙がった際に、当時の内閣総理大臣東條英機陸軍大将は「英語教育は戦争において必要」と拒否したこともあった。

時を超えまさに今現在、多少の国交悪化程度で官民挙げ「ボイコットJAPAN」なる国民運動に懸命な隣国もあるが、それに比べて当時の日本は実際に交戦状態にあった中でも、「民」は多少騒いだものの「官」は冷静であったことが覗える。

とまぁ、そんな状況だったので特に気兼ねすることなく「英語」の勉強ができた我が母だった筈なのだが、彼女の「英語」の実力がどれ程のものであったのか、小生は知らない…

あの世の母上へ追伸
 「切府✖ ⇒ 切符〇」です。
            愚息