昭和19年3月19日 康男(長男)から三郎への手紙

 

 

今回は長男の康男から三郎に宛てた葉書から。

 

最初の部分に父(芳一)が言伝を加えている。

昭和19年3月19日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 (お父さんが書添える。大膳さんの所にはお礼を
取られぬ。ハガキで礼を云って出せ。
岩井柳作さん所へもハガキ出せ。急ぐ訳でもないが、
近所ハ大体お礼に廻った。)
野山も春めき、陽気を覚える候となったが、
其後御前も元気一杯研鑽に励んでいる
事と思う。家の方も一同無事、夫々の道に
奉公している。兄さんも本日の日曜、久方振りの
全休で帰宅休養を攝っている。御父さんは
日曜廃止で本日も御出勤。芳子も試験間近で
登校した。御前が入校して家もめっきり淋し
くなった様だ。御前の書斎はそのままにしてある。
予科士の生活にももう相当慣れた事と思うが、
何時でも明朗に、元気よくやる事だ。充分体
に気をつけた上でね。 では又。     敬具
***********************

相も変わらず芳一の字は小さくて読み辛い。
確かに小生が小学生だった頃、ちょくちょく我が家に来ては庭の手入れなどやっており、性格的に”マメ”であることは知っていたが、字が小さいのはあまり記憶がなかった。

言伝の内容としては、三郎の陸軍予科士官学校への入校及び上京への餞別を頂いたご近所さんにお礼を届けて廻ったが受取って下さらないお宅があるので、三郎の方からお礼の手紙出す様にとの由。

手紙・葉書が主たる通信手段であったので当然現代の我々よりは文字を書く機会が多く、またその作業には慣れていた筈だが、今小生の手元には当時三郎が書き損じたと思われる葉書が10枚程ある。おそらくもっとあったのではないかと思うが、忙しい日々の中での大変な労力である。つくづく便利な世の中になったものである。手書きの葉書など年賀や暑中見舞いで”お変わりありませんか?”と書く程度で、宛名に至っては何年も書いていない小生である。

さて、本題の康男の葉書である。

この年の3月1日付で船舶司令部の船舶練習部学生となって訓練を受けていた康男が久し振りの完全休養日で帰宅していたらしい。当時広島市に住んでいたが実家の三次は70キロ程しか離れていないので、鉄道で2時間程であったと思う。前日夜に出れば結構ゆっくりできたであろう。

のんびりするには幸いだったかも知れないが、折角の日曜なのに父は出勤、妹は学校、残っている母も床に伏していたのではないかと思うと逆に淋しかったであろう。
だからと云う訳ではないだろうが、三郎への手紙になったのかも知れない。
内容的にも様子を報せ三郎の健康を気遣う”普通”の手紙である。

このひと月ほど前の昭和19年二月に所属していた船舶司令部での集合写真があるのでアップしておく。因みに裏書には

広島市宇品町
 暁第二九四〇部隊村中部隊髙井隊
  将校見習士官少尉候補者
 第二次要員編成記念
    於 学庭
  昭和十九年二月吉日

とある。

19年2月暁二九四〇部隊 前列一番左が康男

昭和19年3月27日 長男(康男)から父(芳一)への重大なお願い

ここの所、三男(三郎)がメインの投稿が続いていたが、今回は久し振りに長男(康男)から父(芳一)への手紙。

前年(昭和18年)暮れに船舶司令部付船舶練習部学生として広島市に居た康男であるが、訓練に励みながらも日々重くのしかかってくる戦争の重圧と戦っていたことが読み取れる手紙である。

昭和19年3月27日 康男から芳一への手紙①
昭和19年3月27日 康男から芳一への手紙②
昭和19年3月27日 康男から芳一への手紙③
昭和19年3月27日 康男から芳一への手紙④
昭和19年3月27日 康男から芳一への手紙⑤

解読結果は以下の通り。

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拝啓 其後皆様御変わりありませんか。
芳子の試験発表は本二十七日と承知していますが、如何なる
結果でしたか。多分大丈夫だろうとは思っていますが、
未だ何も通知を受取っていないので、いささか心配している
次第です。何分の御報告を御願い致します。
三郎からは其後、何んとも言って参りませんが、あれも
多忙を極めている事と存じます。小官は相変らず
任務に邁進、毎日学科に実習に修練に励んでいます
から、何卒御休神下さい。五月一杯は当地にいる筈ですが、
それ以後の事については未定。多分四国へは行く様に
なると思っています。下宿も非常に居心地によろしい
家で、早や三ヶ月御厄介になった譯です。
五年生になる女の子、一枝ちゃんは「全優」の好成績で
御褒美?に東京の方へ行っています。一人ですよ。
但し、友達の御母さん達と一緒ではありますがね。芳子なんかに
比べて数段しっかりしている様に思えます。然し、早熟という
こともあまり感心した事ではありませんから、良否は判断
の限りではありませんね。夏ノ軍服、上下を少し絞っていただ
ければと思っていますが、どんなものでしょうか。うしろの方はよろしい
様ですが、前の方がちょっと思わしく無い様でしたからね。
御父さんの方で猿又が入用なら金巾とメリヤスのを各一衣
買ってありますから。サイズは100です。
さて、次は小生一身上の問題、結婚についてですが、
御父上、御母上のご意見を伺いたく存じます。
未だ早すぎるか、或は、地位が不安定だとか、
小生としましては、貰ってもいいと思っています。 というのは、
第一 招集解除が何時、之を望めるか、果して、完全なる解除
がありて地方に帰る事が出来るか、
第二 現在の地位が安定していやすい様に考えていられるが、果して
之以上に安定する時が来るか、どうか。軍籍、特に現在の如き
任務にある以上、移動は常の事です。こんなことを嫌って
来るのを嫌う娘なんて、勿論いない筈ですが。
第三 之はあまり感心した事ではありませんが、小官に若しもの
事がありたる場合、勿論覚悟はされていると思いますが、小官
にも覚悟は常の事ですが、斯様な場合、三原家の長男
として後継者をも残せず、御両親の御面倒を見るべき
「娘」もいない事は、子として、長男として、忍び難い事
である事。
第四 部隊の方としても、奨励している事。猶現在、五月迄が
一番手続は容易なる事は先般部隊長殿より話しが
ありましたから、蛇足乍ら付け加えて置きます。
まあ、ザッと以上の様な理由で、どうせ貰うべきものは
早々貰って置いた方が都合がよかろうと思っている次第
です。但しまだ決定的に御両親に要求する程度では
ありません。経済的なる問題も考慮に入れなければなりません
し、其他の対人関係も勿論考慮外にある事は許され
ません。 で、御両親の御意向をはっきりとお伺いし度いと
存じている次第です。貰うとすれば、此時節、相当慾が
張れるのではないか(之はちょっと思い過ごしですかね。)とも思っ
ていますが、之は一生の重大問題で軽々に扱う事は
出来ませんがね。対象として求むべき相手の条件は一度
申上げた事もありますが、
一、 肉体の健全にして容姿は上の部
二、 明朗にして頭脳は明晰なる事
三、 家庭に関しては御両親に御委せします
四、 時に空閨を守り、三原家に在りて円満に生活を営み得る事
五、 年齢の差は 四―六 程度
大体以上の如き条件を満足さすべき人物です。
とにかく、二四才:の貧乏少尉では早すぎるか、もう二、三年
待ってみる方がよろしいかどうか、人間としての完成
とか、経験とか、いう点よりみて、早すぎるか、
或は、貰い度ければ、貰うのもよかろう、とか、何とか、
明確なる御返答御願い申上ます。重ねて申しますが、
小官としては、「是非」というのではありませんが、左様
御承知の上、御考慮を願います。又小生の方として
現在心当たりは更にありませんから、其点御心配無き
様老婆心迄に申上げます。 小官も子供ではありません
ので、結婚という事に就いても、二十四年間の極めて
浅き学識と経験からではありますが、相当考慮は致して
いる心算りです。先は御願迄。          早々
御両親様                   康男拝

この様な問題で御両親の頭を悩ますのは早すぎると思召めさば、全然何も
御考慮下さらなくても結構です。又、適当なる機会が到来するまで待ちますから。
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難読部分は2枚目7行の最後の文字が読めなかった。
猿股の数え方は通常「枚」なのだが、字面から「衣」とした。

さて、内容の方は
妹(芳子)の女学校受験結果のことや三郎のこと、自身の近況等を一通り書いた後に、手紙の大半を結婚についての「願い」に割いている。

二十四(満年齢であればこの時点では二十二)歳の青年である。現代であれば結婚を焦る年齢ではない。
当時の結婚観が現代と異なっていたことを差し引いても、”どうしても”と云う年齢ではなかったであろう。

部隊の教官から結婚に関し何らかの”薦め”があった様ではあるが、直ぐに結婚したい女性がいた訳でもない様子である。

焦る理由は唯一つ。
「戦争」である。
練習生としての訓練期間は決まっており、その時が来れば戦地へ向かわねばならない。

我が国があれだけ大規模な戦争を行っている状況下である。
三郎の様に志願して軍関連の学校に進んだ者は多少心構えが違ったかもしれないが、戦地に赴くことが決まった人々の多くは
「いつまで生きられるのだろう」
と云う恐怖と戦う毎日だったであろうと思う。

小生含め戦争を経験していない世代にとっては”徴兵される・戦地に征く”と云う状況は、漠然と「恐ろしい状況」としか理解できない。
戦地での恐怖が想像を絶するものに違いないことは理解しても、そこに至るまでの「ガンで余命宣告された」ような期間のことを想像することはなかなか難しいのではないかと思う。

将にその「余命宣告」の期間の真っただ中にあった康男からの「結婚についてのお願い」である。
これを読んだ時の両親(芳一・千代子)の気持ちを想像すると涙が止まらなくなってしまう小生である。

戦争が終わった後に、「こんな事書いてましたねぇ。ハハハ。」と笑って話せる日が来ることを願っていたはずなのに…。

康男 昭和19年頃 撮影日不明

昭和19年3月30日 康男から三郎への葉書

 

父、母と続いて最後は長男(康男)からの手紙である。

先日の両親に宛てた手紙では、将来にかかわる重大な「お願い」を述べていたが、弟への葉書には勿論そんな気配すら見せてはいない。

 

昭和19年3月30日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 早や春風が武蔵野を渡って
いると思うが、其後どうだ?
二十一日には初めて引っ越をしたそうだね。
嬉しかったろう。写真を撮ったか、早く御前
の制服姿を見たいものだ。もう一か月を
過ぎるから、もう相当板についていると思う
が。芳子も無事女学校に入ったから安心
すべし。どうやら御父上も一安心というところ
だね。俺も相変わらず元気で御奉公している。
敬も増産戦士の一員として頑張っている。近々徴兵
検査だ。とにかく頑張ってくれ。      早々
************************

本ブログの最初に投稿した葉書の内容にもある様に、康男は13歳の時に親元を離れて広島商業学校での寄宿舎生活を始めており、17歳で初めて親元を離れた三郎を多少冷やかしつつも、その新鮮さを懐かしんでいる様子である。

現代の様にネットやケータイの無い時代であるから(それは小生の若い頃も同じであったが…)やはり写真の需要は大きい。
父も母も兄弟皆「写真は撮ったか?」の大合唱である。
以前の投稿にアップした三郎の制服姿の写真は4月9日に撮影したものなので、この時点では撮れていなかった。
訓練は忙しいが家族の要望にも応えなければならず三郎も大変であったと思う。

芳子の女学校合格の報せの後に、次男(敬)の徴兵検査の事が書かれている。
小生は、敬が軍隊に入ったと云う話は聞いたことが無く、またそれらしき書類なども残っていない様なので恐らく入隊しなかったのだと思う。
但し、今後の手紙にその辺りの事情が出てくるかもしれない。

現代の様に便利な時代ではなかったが、その分家族間の愛情の密度が濃かったように思えるのは小生の気のせいだろうか…。

 

昭和19年4月17日 康男から三郎への葉書 かなり乱筆…

 

今回は長男康男から三郎への葉書

母千代子からの言伝で三郎宛の荷物を手配した旨が記されているのだが、達筆な筈の康男にしては結構な乱筆であるところが気に掛かる…

 

昭和19年4月17日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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御葉書有難う。其後元気にて
精進している由、安心した。兄さんも
元気で頑張っている。そちらもそろそろ
櫻の見頃と思う。広島も満開というところ
だ。故郷は月末位に妍を競う事
だろう。所望の品々、母上より通知があ
ったので、家の方へ送っておいたから、何れ
入手する事と思う。無暗に手に入らぬ故、
心して使用する事。では体に気をつけて
頑張れ。
*********************

5行目の「妍を競う」は、葉書には「女ヘンに研」と書かれているが、どうもこれに該当する漢字が見当たらないので恐らく「妍(うつくしい)」の間違いだと思われる。

内容としては大したことを書いている訳ではく心配する部分などないのだが、どうも「乱筆」が気に掛かる。

この昭和19年4月当時は、南方や大陸各戦線で防戦一方となった戦地への兵站が急務となっており、康男たちの部隊の出兵も間近になったことは間違いないであろうし、当然その状況も部隊内部では周知されていた筈と思われる。

また、上官や先輩将校の戦死の報せなどの噂も耳にしたかも知れず、”何時出兵命令が出されるのか”と云う緊張を強いられる中で日々厳しい訓練があり、体力的にも精神的にもかなり極限に近い状況にあったに違いない。
そんな諸々が「乱筆」となって表れてしまったのではないかと思う。

因みに、この当時康男は広島市千田町という所に下宿していたのだが、近くには京橋川に架かる御幸橋がある。
この「御幸橋」は原爆直後の惨状を撮影した数少ない写真の現場となった場所であり、原爆資料館に展示されたり教科書に掲載されたりしているその写真は知っている方も多いと思う。

被爆直後の御幸橋

康男が広島を離れてから一年後に原爆は投下された。

 

昭和19年5月10日 康男から三郎への葉書 龍顔?佳節?寿ぐ?

 

 

久し振りに長男康男の葉書である。

先日三郎が実家に送った手紙の内容と写真が康男の手許に届いた様で、その辺りが話題になっている。

昭和19年5月10日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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そろそろ暑さを覚ゆる時候となった
が、其後元気でやっているか。先日家の方
から写真が届いた。制服がなかなか似合う。
外出して撮った分も早く見たいものだ。
天長節観兵式には参列、龍顔を拝
する光栄に浴したそうだが、兄さんはニュースで
盛儀を偲んだ。兄さんは船上で佳節を寿いだ。
だんだん暑くなる、伝染病に罹らぬ様厳
重に注意する事。事項柄、特に精神の緊張を緩め
ない様に頑張れ。 では又。
***********************

「龍顔」、「佳節」、「寿ぐ」と現代ではあまり使わない様な語彙を使っている。
それほど、天長節観兵式で三郎が大元帥閣下(天皇陛下)を至近距離で拝顔したことは三原家にとって”大事件”であったのであろう。
もちろん康男も羨ましく思ったに違いない。

因みに
・龍顔:天子の顔
・佳節:めでたい日。祝日
・寿ぐ:言葉で祝福する。祝いの言葉を述べて、幸運を祈る。「言祝ぐ」とも

伝染病に注意せよとの忠告がある。
当時の伝染病と云えば「結核」のことである。当時はある意味「国民病」であった。
しかし(小生も詳細は聞いておらず正確ではないが)おそらく千代子も敬も結核だったようで、その辺りの事情も康男は心配していたのであろう…

 

昭和19年6月26日 康男から三郎への葉書 「戦局正に重大」 康男の出陣近し…か?

 

今回は長男康男から三郎への葉書。

以前の手紙の内容などからも三郎が康男の動向を気にしていた様子が伺えていたが、ついに動きがあるようである。

 

昭和19年6月26日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 暦では入梅后幾日、文字通りの
空梅雨で毎日暑さが続く。御前達の訓練も
愈々本格的になって、毎日相当疲れる事と思う。
其後体の調子は如何。何といっても躰が第一、
気候に負けるな。今こそ一番緊張すべき時だ。
休暇でも頂ければ早く御前の立派な姿が見たいものだ。
兄さんもどうやら今月限りで広島に別れを告げる。
来月早々愛媛県宇摩郡三島町暁二九四〇部隊矢野
部隊の方に宿先変更の予定。移ったら早速
様子する。戦局正に重大、自重百変せよ。   敬具
************************

陸軍予科士官学校入校後数ヶ月の三郎が正確な戦況を知らされていたか甚だ疑問であるが、陸軍船舶司令部船舶練習部学生であった康男はかなり詳しく戦況を知らされていたのではないかと思われる。

康男の所属していた陸軍船舶司令部とは陸軍に於ける船舶での輸送や上陸を専門とした部隊であったが、戦局の悪化(と言うよりも「敗色濃厚」と言った方が正確か…)したこの当時には水上特別攻撃艇(通称:マルレ)に乗って爆雷とともに敵艦に突撃すると云う特攻部隊も存在しており、作戦遂行にあたっては戦局に関してもある程度正確な情報が知らされていたと思われる。
詳しくは以下サイトをご参考願いたい。
http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/heiwa/heiwa009/four%20sets%20of%20bitter%20fighting%20attacks%20boat.html

その康男が近く愛媛県宇摩郡三島町へ異動するとある。
削除線で消されてはいるが「(船舶司令部)暁二九四〇部隊矢野部隊」のある場所であり、おそらく戦地へ向けての出発が近いと云うことであろう。

戦時下に於て軍隊に入り出兵命令が出るまでの間は「ガンで余命宣告された」ような気持ちなのではないか…と以前の投稿でも書いたが、葉書の中の
「早く御前の立派な姿が見たいものだ」
「今月限りで広島に別れを告げる」
と云った言葉に、いよいよその「余命の最後」が近づいて来た事への覚悟が見て取れるようである…

 

昭和19年7月5日 康男から三郎への葉書 愛媛県宇摩郡三島町字中ノ庄に転地…

 

今回は長男康男が四国へ転隊後すぐに出した葉書。

康男は宇摩郡三島町にあった暁二九四〇部隊矢野部隊(陸軍潜水輸送教育隊・通称マルユ部隊)に配属された様である。

肉体的にも精神的にも疲れていたのであろうか、文字も多少「殴り書き」の様である…

 

昭和19年7月5日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 本格的な夏を迎えんとする候と
なったが、其後どうだ。訓練も暑さの砌、
仲々苦しい事と思うが、今緊張を欠いたら
今迄の苦心も水の泡となる。大いに自粛、百戒。
体には細心の注意を要する。八月ともなれ
ば帰省の機会もあるとの事。家では楽しみ
にして待っている。小官、本月初め当地に転じ
て新しく服務している。田舎はおおらかで、
仲々よろしい。帰郷して御前と会える
機会を今から待っているが、どうなるか分らん。
とにかく充分体に気をつけて頑張るべし。
早々
************************

康男の新しい住所は
愛媛県宇摩郡三島町字中ノ庄○○○○方
となっている。
現在の四国中央市の三島中ノ庄辺りであろうか。

当時帝国陸軍は戦艦や船舶をほとんど失っていた帝国海軍に頼らず自力で戦線へ物資を輸送するために中型潜水艦マルユ(○の中にユ)を極秘で開発・製造しており、康男はその潜水艦の運用任務にあたったと思われるが、この同時期に暁二九四〇部隊矢野部隊は小豆島に「陸軍船舶幹部候補生隊」を設置し「海の特攻隊」と呼ばれた通称マルレ(○の中にレ)艇の訓練を開始しておりそちらの作戦行動に関与していた可能性もある。

小生、これまで「特攻」と云う史実についてそれなりに理解しているつもりであったが、今回肉親である康男(大叔父)がこの「特攻」に関与していたかも知れない事を知るにつけ、これまでとは違った視点からこの「特攻」を知らなければならないと感じている。

「帰郷して御前と会える機会を今から待っているが、どうなるか分らん」
帰郷の予定も定かでなかったのは極秘任務にあたっていたためなのかも知れない…

 

昭和19年7月25日 康男から三郎への葉書 戦局悪化の中「御前とも逢える可能性が増大した」…

 

今回は直近に広島への再配置転換となった長男康男から三郎に宛てた葉書。

逢えないと思っていた三郎との再会が叶いそうになった喜びを「可能性が増大」と表現している。

 

昭和19年7月25日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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拝啓 愈々暑さ厳しき時候となったが、
其後元気で精励しているか、待望の
休暇も近付いて大いに張切っている事と
思う。兄さんは都合でまた広島へ帰る事
になって廿日からこちらに来ている。
家にもチョット帰って来た。広島はどうも
縁が深い。又当方御厄介になる筈。
御前とも逢える可能性が増大した訳だ。
体に充分気をつけて、逢える日を待っている。
早々
***********************

何故康男が四国への転隊直後に再転隊で広島へ戻って来たのか本当の理由は不明であるが、以前の投稿にも記した様にこのひと月程まえに日本軍がサイパン島での戦いに敗れ「絶対国防圏」を突破されたことで一層の戦況悪化を招いた事が関係していたのではないかと考えられる。

しかし皮肉な事に、その結果おそらく逢えないと思っていた三郎と逢える「可能性が増大した」のである。

葉書では「逢える」と云う言葉を遣っている。「会える」ではなく…
「会う」は単に「顔を合わせる」とか「集まる」と云った意味で用いられるが、一方「逢う」は「大切な人」や「強い思い入れのある人」とあう場合に使われる。

遠く離れた場所(陸軍予科士官学校)へ行ってしまった三郎とは「もう二度と逢えない」と康男は思っていたのであろう…

 

昭和19年11月2~3日 康男の比島出征を知った三郎から芳一への手紙 「何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ち」

 

今回は遂に康男の出征が決まったとの連絡を速達で受取った三郎が芳一へ宛てた手紙である。

心中複雑なものがあった状況が読み取れる。

昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年11月2~3日 三郎から芳一への手紙③

解読結果は以下の通り。
注)■■は芳一の知己で東京在住の方。
康男や三郎が上京した際にお世話になった。

***********************
拝復 速達本日(二日)受取りました かねて思っ
ては居ましたが康男兄さん遂に出動との事
何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ちになりまし
た。これが感激と云うのでしょうか。それに行先が比島
との事 又々一層この感じが大です
兄さんも日本軍人です 将校です この三千年来
の歴史を有する日本帝國が國運を賭して戦ってゐる
大東亜戦争の其の最も大切なる比島に出陣され
るのです これ程の喜びは又と有りましょうか
お父さんもお母さんも敬兄さんも芳子ちゃんも皆
一緒に康男兄さん萬歳を唱えて下さい そうして喜ん
で下さい 康男兄さんもさぞ嬉喜として出て行かれた
事でしょう 私も十ヶ月の軍人生活のお蔭か少しはこんな
氣持がわかる様になった様な氣が致します
私は今 康男兄さんの寫眞を前にしてこの手紙を書い
て居ります 夏休暇に康男兄さんと一夜を明かしたのが
当分のお別れとなりましたね 兄さんの寫眞を見てゐるとあの
朗らかなる笑いが聞える様な氣がします だが兄さんも私も
互に皇国護持の大任を有する益良夫です 八紘為宇
の皇漢に殉ずるべき責務を有して居ります
軍人たるものは必ず一度は是の如き事があります 私とても
近き将来必ずあります この間兵科の志望がありました
私は船舶 航空 歩兵 戦車 通信 高射 工兵と書きまし
た 航空兵にやられるかも知れません まだ適性検査が
ありませんが何兵になっても国の爲です
一年生が二十九 丗 丗一の三日間に入校しまし
た 三中からは三人位です 丸住は海兵に行ったらしいです
次に康男兄さんの事が忙しくなくなったら文具類を送
って頂きたいのですが 先づ手簿(紙質の良いのがあればそれが可いのですが)
歯ブラシ 吸取紙若干 計紙(全計紙)等が欲しくあります
廿九日には■■様方に行き非常に御地走になりました(餅)
本日(三日){この手紙は両日に渡って書きましたから}も外出する予
定ですが 遥拝式があって少し遅くなります 次は十二日
です。これ(手紙)は■■様方より出しますからあまり大ぴらにせられ
ぬ様にお願い致します
忘れて居ましたが廿九日にはちゃんと小包は着いてゐました
異常なく故郷の香髙かく頂きました 有難うございました
本日(三日)は珍らしく雨天です 明治節に雨の事は少ないです
ね それから顧みれば今日私の合格発表があったのですね
思い出すと何か因縁の様です あの日は快晴でしたね
迂頂点になったのですね お母さんにも申し上げて下さい
あれから一年になります 早いものです
では要用のみ 敬兄さん 芳子に体に氣を付ける様
お傳え下さい            敬具
***********************

「康男出征日決定 フィリピン島」旨の速達が届いたのであろう。
既にフィリピン島には米軍が上陸し激しい戦闘(と云うよりは圧倒的不利な状況下で壊滅的な打撃を受ける日本軍)が行われており将校生徒たる三郎もその状況はある程度知っていたと思われ、覚悟はできていたであろう…が
「何だか胸に込み上げて来る様な変な氣持ち」
と云うのが正直な感情だったと思う。

当時、康男や三郎など軍人にとっての「お国の爲」とは「八紘為宇の皇漢に殉ずる」と云うことであった。
「身を挺して国を、家族を護る」ことが使命だったのである。

「これが感激と云うのでしょうか」
「これ程の喜びは又と有りましょうか」
「皆一緒に康男兄さん萬歳を唱えて下さい そうして喜んで下さい 康男兄さんもさぞ嬉喜として出て行かれた事でしょう」
これらの言葉は三郎の本心では無かったであろう。いやむしろ逆であったと思う。
戦争と云う狂気が「悲しみ」を「喜び」に書き換えさせているとしか思えないのは小生が戦争を知らない世代だからであろうか…

祖父芳一も、伯父三郎も、母芳子もこの当時の家族や康男の様子を話してくれた事はないので想像でしかないが、
本人も家族も皆「本当に悲しく苦しかった筈だ!」としか思えない小生である…

康男 昭和19年頃 撮影日不明

 

75回目の8月15日… そういえば康男伯父さんの誕生日は8月14日だったっけ…

 

75回目の8月15日である。
拙ブログの内容からしても特別な意味を持たざるを得ない「祈念日」なのであるが、既にSNS等では多くの方々が靖国をはじめとする8月15日を取り上げていらっしゃる。
ヘソマガリとしては「何か他の話題は無いかなぁ」と思案していたところ、長男の康男(小生にとっては伯父)の誕生日が大正10年8月14日とニアピンであることに”無理矢理”気付いた。

祖父芳一~母芳子~小生と引継いだ遺品の中に「三原康男出産祝物覚帖」なるものがある。
因みに康男以下敬、三郎、芳子と子供達の出産時のものは全てあるのだが、実際に内容を見るのは今回が初めてである。

 

康男出産祝物覚帖 表紙
康男出産祝物覚帖 内訳1
康男出産祝物覚帖 内訳2
康男出産祝物覚帖 内訳3
康男出産祝物覚帖 内訳4
康男出産祝物覚帖 内訳5
康男出産祝物覚帖 内訳6
康男出産祝物覚帖 内訳7
康男出産祝物覚帖 内訳8
康男出産祝物覚帖 内訳9
康男出産祝物覚帖 内訳10
康男出産祝物覚帖 内訳11
康男出産祝物覚帖 内訳12
康男出産祝物覚帖 内訳13
康男出産祝物覚帖 内訳14

どうやら生地・反物系の祝物が多い様であるが、よく知らない物ばかりであったのでググってみた。
・モスリン:木綿や羊毛などの梳毛糸を平織りにした薄地の織物の総称。
軽く暖かいので子供の着物によく使われていたらしい。
・友仙:友禅(仙)染のこと。
・縮:ちぢみ(縮)織物のこと。
・ネール:ネル(フランネル)のこと。

絣・紬などの他に、うどん・素麺・羊羹・饅十(頭)などの食べ物もあるが、その中で砂糖が多いのに驚いた。
当時はまだまだ貴重品だったようである。
下駄・雪駄・靴などもあり現代とはかなり様相が異なっていた事が判る。

芳一・千代子夫妻が待ちに待った長男の誕生を多くの人達が祝福してくれたのである。

子供の誕生は親、家族、親戚にとって大きな喜びであることは当時も今も変わらない。
親は子供の成長を望みその過程に一喜一憂するのであるが、「戦争」はあまりに大きな「一憂」であった…

大正10(1921)年8月14日 99年前のことである。

と云うことは? 康男伯父さんは白寿(99歳)か…