昭和19年3月11~15日 三次中学校の同級生から三郎への葉書・手紙 vol.2

 

三次中学校の同級生シリーズ第2弾。

3通とも各自及び学校の現況報告に終始している。
やはりこの時期は進学に関する話題が多く、関心が高い事が覗える。

最初は、Yさんからのもの。

昭和19年3月11日 Yさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***************************
いよう。二ツM生は張切っているらしいな。
元気な言葉を眼の前にして安心致した。
君の、貴様。俺の言もお待ち兼ねのも
のだったぞ。僕は松江をアッサリ振られた。
然しセンチメンタルにはならないぞ。僕の最善を
盡した結果だから。
今度は必ず君に吉報を致すものと誓
う。返事が送(遅?)れて済まなかった。では、
***************************

”二ツM生”の意味が陸豫士生徒の別称なのか三郎のあだ名だったのかハッキリしないが、その後の内容からするとお互いを”貴様・二ツM”と呼び合っていたような感じであり、だとすればあだ名だったかも知れない。二人が仲良しだった証拠であろう。
他の同級生の葉書にもあった様に高校受験者は全滅だったらしく、彼も松江高校がダメだったと書いている。あっけらかんと書いているが内心穏やかではなかっただろう。後に続く試験に合格することを誓いながら短い内容で結んでいる事が悔しさを物語っている。

続いて、Mさんからのもの。

昭和19年3月13日 Mさんから三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***************************
三原君、第一報有難く拝見した。俺も背水の陣
を布いて大いに頑張っている。級友諸君も同様頑
張っている。今年は軍部諸学校の入学試験が早くな
ったのだ。陸士は学科が先にあり、五月二十八日より始まる。
俺は両方受験する。そして必ず入る。軍部諸学校受験
者が実に多数いるぞ。十一学級だけでも十名いる。三年
は実に多い。海兵に五十名は充分いる。それに彼の山崎
暗才が海兵だ。喜べ斯かる状況だ。陸幼に二年の
数田が一名合格した。四年では全員髙校に対して玉
砕した。然し、髙工、師範等は大分合格するだろう。
本月十三日より一週間暗渠排水作業始る。三月より七月
までの四ケ月間軍需工場で連続作業。困ったよ。では又。
***************************

この方の文字も読み易く問題部分はなかった。

先ず、”軍部諸学校の入学試験が早くなった”とある。前年三郎が受験したのが9月20~22日だったから4ヶ月程早くなっている。それ程兵士(将校)が不足しており補充が急務であった。
また、受験希望者数も例年に比べ増えている様子。これは”お国の爲”と云う気持ちも当然あったと思うが、正直なところ”どうせ徴兵されるなら”の方が強かったと思う。事実昭和19年当時は召集数も増大して”根こそぎ動員”が始まっており、当然のことであろう。

”山崎暗才”が何者かは解からない。内容からすると秀才或いはクラスの人気者だったのかもしれない。

2ヶ月半後に陸豫士の受験をひかえているにも関わらず、毎日暗渠排水や軍需工場の作業に動員され勉強の時間が限られ、大変なプレッシャーであったと思う。

最後は、MOさんからのもの。

昭和19年3月15日 MOさんから三郎への手紙

解読結果は以下の通り。

***************************
拝復
御手紙有難う。
今日岐阜より帰って見るとあったのでちいと嬉
しかったよ。
此の間、岐阜髙工に受けたが五十人に一人だ。後へほう
たよ。まあ想像してくれ。僕も五年組だ。
今頃は学校も大分よくなった。朝会の時は号令の
練習をしておる。又暗渠拝水に出掛けている者
もあれば武道章の上級を受けるために練習等
をしておる。
次に写真だが、中谷は「本日公休日」荷物は隣へ。
これだからしかたがないなんと言っても萬年公休日だよ。
新ニュースとして君が心配するかもしれないが、新見
と橋本に広島行だ
靴は確かにもらった。安心してくれ。
まあニュースがあったら知らせる。
乱筆御免
                   さようなら
  三月十五日
三原君へ
***************************

MOさんは母(千代子)の手紙の中にも出てくる友人で、近所の幼馴染らしい。
三郎も含め同級生が皆綺麗な字なので字の汚い小生は少々凹んでいたのだが、(大変失礼な言い方だが)この手紙でちょっと安心した。

彼もまた難関受験(50倍はすごい!)に失敗した様で、”僕も5年組だ”と自嘲気味に書いている。

”後へほうたよ”は、多分”(びっくりして)のけぞった”の意味だと思う。小生も広島出身であるが広島市と呉市の間にある海田市と云う瀬戸内海側の町で育ったので、山間の三次とは結構方言が違うので間違っているかも知れない。

軍関係の試験も受けない様で、残りは学校の様子などを書いている。
”武道章”とは武道章検定のことで、前年(昭和18年)に制定された武道を戦争技術化するための政策で”銃剣道、射撃道、剣道、柔道、弓道、相撲”が対象であったらしい。

写真の件は良く解らない。”中谷”が写真好きの友人なのか、或いは写真館なのか不明。

”新見と橋本に広島行きだ”は、多分担任教師の異動を言っているものと思う。

友達同士の会話は必要部分が欠落していて解かりづらいが、靴をあげる程の仲である。親友に間違いないだろう。

昭和19年3月14日 三郎から父(芳一)への状況報告

今回は陸軍予科士官学校に入校して間もない三郎が父(芳一)に送った近況報告。

A5サイズの両面書きとなっている。
A4サイズのものを半分に切ったものかと思ったが”規格A5判”とあるので最初からこのサイズの様である。便箋と云うよりはノートの様なものかも知れない。
しかし、他の手紙等にも通常の便箋で両面書きして節約しているものが目立つ事から、物資不足が相当深刻な事が判る。

毛筆で書いているが案外達筆で難読部分はなかった。

昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙①
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙②
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙③
昭和19年3月14日 三郎から芳一への手紙④

解読結果は以下の通り。
注)■■様は芳一の知己で当時三郎がお世話になっていた方

***************************
拝復 陸軍記念日出しの葉書確かに受取りました。
私も元気一杯張切って豫科の深奥に向い猪突猛
進中であります。家の方も皆元気でお母さんが働き出
され芳子も頑張って居るとの事大いに安心致しました。
少し過ぎ去った行事を羅列してみましょう。先づ三月六
日、入校式東校庭に整列、校長閣下、代理幹事閣下
の命令を以て正式に予科生徒となり大いに感激致しま
した。三月九日、六十期生の一部我等は早朝学校を出
発。宮城、靖国神社、明治神宮に参拝し入校の報告
をなし決意を新にしました。翌十日、陸軍記念日(三十九
回目)には早朝春雨けぶる中に払暁遭遇戦を行い血を
湧き肉躍るを感じました。次に来るべき事について一言。
三月十七日に航空士官学校に行かれる航空関係の方の
卒業式があります。優等生は六人で御賜品を戴か
れます。三月二十日より私達の学科が始まります。
数学、物理が断然多く、法制、化学、国漢、国史、心理、
修身等。私は語学は支那語であります。又
三月二十一日、春季皇霊祭には第一回の外出が許可
されました。私は■■様の方へ行く積りです。非常に
皆喜びました。東京を大手を振って闊歩出来ます。
未だ倉野さんに逢えていませんが、元福山に居た時
一級上であった(南校)髙畠尚志さんが伊吹隊の第二区
隊居られ逢いました。二年生です。地上部隊ですか
ら残られます。倉野さんも地上です。三中出身者に
も未だ誰にも逢いません。早く逢いたいのですが、
中隊が離れていて一寸行けませんが、最少し経ったら
各縣出身者の集会があるそうですから、その時には
明瞭に分かります。分かったら又お知らせ致します。
我が富士隊の広島縣出身者の二年生の芸備
線の駅向原町出身の今岡さんと云われる方が私
の区隊に逢いに来て下さいました。非常に嬉しかったです。
同縣というと非常に親しみを増します。私の区隊の戦友
に呉一中出身者が一名(本籍府中出身)、廣幼出身者一名 合計廣島縣出身者は我が
区隊には三名、山口縣一名、岡山縣一名、島根縣一名という
様なことですが、一年生の区隊には指導生徒殿と
云われる方が居られて勿論二年生の方の優秀な方で
すが、私の区隊の指導生徒殿は市井忠夫様と云われる方
です。私達が色々実際何から何まで教えて戴くのです。
その方が廣島幼年学校出身者で私の言葉を聞かれ
て直に「貴様は廣島だな」と云われました。本籍地
は新潟だそうです。お知らせして置きます。
あ、忘れましたが入校式の時の写真が十種類出来、私は全部
購入しましたから受領したらお送り致しますから、それにて
お察し願上ます。又外出したら私の写真を撮る
積りです。では未だ寒気厳しき折柄御身体を大切
に無理をなさらぬ様呉々もお願い申し上げます。
乱筆御免下さい。              敬具
***************************

まず、”宮城(キュウジョウ:ミヤギではない)だが、当時は”皇居”ではなくこちらが通称だったらしい。靖国神社、明治神宮と参拝し皇国軍人の一員となったことを実感したであろう。文面からもナショナリズム的な意気込みが感じられる。

ところで、ナショナリズムは何故我々の血をたぎらせるのだろうか。
小生の若い頃の暴走族などは”ヤンキー”と云いながら”特攻ハチマキ”や”日の丸ステッカー”で日米ナショナリズムの融合体(?)であったが、深く歴史など勉強をしていない若者達(一部ではあるが)を惹きつけてしまう魅力(魔力?)があるのは間違いない。
妄信的なナショナリズムは害悪でしかないが、オリンピックやワールドカップを観るにつけ適度なナショナリズムは人間としての正常な感性だと思う。
しかし、悲しいかな戦時中の我が国におけるナショナリズムは妄信的なものになっていた誹りは免れない。

”払暁遭遇戦”とは歩兵隊が前進する際に敵部隊と遭遇した事を想定した戦闘訓練でこれが明け方(払暁)に実施されたと云う事である。

春季皇霊祭は現在の春分の日だが、初めての外出が許可されたことを甚く喜んでいる。三郎だけでなく”皆”が喜んでいたようであるから強がってはいても学校生活は厳しかったのであろう。

後半は同郷や近県の出身者の話になっている。やはり故郷は恋しいのであろう。郷愁…。これは今も昔も変わらない。

昭和44か45年の正月(小生が小学4か5年生の頃)だったと思うが、広島市にあった三郎の自宅で三郎一家と小生一家に父芳一も集まって新年会を開いていた際、芳一が”これは三郎が小学校の時に書いたんじゃぞ。上手じゃろう。”と自慢げに半紙に書かれた書を皆に見せたのだが、三郎はちょっと恥ずかしかったのか芳一からそれを奪い取り”余計な事せんでもええ。”と怒ってチリジリに破いてしまった。こんな事もあったせいで小生にとっては”軍隊経験のある怖い伯父さん”なのであった。今回の毛筆書きで思い出した話である。

最後の辺りで三郎が言っている入校式の写真については次回の投稿にてご紹介させて頂く。

 

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校(振武台)第六十期生徒入校式の様子

今回は前回の投稿にあった陸軍予科士官学校(振武台)第六十期生徒入校式の様子を写した写真を紹介する。

厚みのあるしっかりした写真なので学校側が公式に撮影し生徒に販売したものと思う。

裏書のあるものと無いものとがあるので、説明書きが不十分であることをご了承願う。

1.校長閣下代理學校幹事 宮野正年少将閣下の閲兵①

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式①

2.校長閣下代理學校幹事 宮野正年少将閣下の閲兵②

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式②

3.校長閣下代理學校幹事 宮野正年少将閣下の命下

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式③

4.入校式(整列)の様子①

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式④

5.入校式(整列)の様子②

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式⑤

6.入校式(整列)の様子③

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式⑥

7.入校式(整列)の様子④

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式⑦

写真で見る限り、当日は晴れていた様子であるが、雪が積もっており寒かったのではないか。
今日では朝霞辺りはそんなに雪が降る地域でもない様に思うが、当時は”ちょくちょく”降っていたのか、或いはこの時も”たまたま”だったのか。
校舎の屋根の雪の残り具合から察するに”たまたま”の様な気がするが…。。

ググってみたところウィキペディアに「60期 陸士 1824名」とあった。ただ、正確かどうかは自信がない。しかし、写真で見る限りその位は居そうな感じの生徒数である。

この写真をみて父(芳一)は喜んだであろう。しかし母(千代子)はどうだったか。むしろ息子の行く末を案じ不安が増大したのではないだろうか…。

昭和19年3月15日 次男(敬)から三郎への檄文

今回は次男(敬)からの葉書。

三郎も大変である。家族全員や友人たちからの返信が引きも切らさず届くのだから…。
訓練後の束の間の時間を手紙を書くことに取られ肉体的にはしんどかったであろうが、故郷とつながる嬉しさと安堵感が勝ったのであろう。まめに返信している。

敬は前回の葉書でも結構厳しい言葉で檄を飛ばしていたが、今回もかなり厳しい。

昭和19年3月15日 敬から三郎への葉書①
昭和19年3月15日 敬から三郎への葉書②

かなり横長の葉書なので画像では文字が読み辛いかも知れないがご勘弁を。
解読結果は以下の通り。

**********************
御葉書有難う。元気で勉励している由安心した。
どうだ、もう大分軍隊生活にも馴れた事と思う。
御前自身の名誉でもあり、一家・三次町として
の誇りでもあるのだ。
御前も今迄の子供では無いのだ。
自覚してやれ。一生懸命やるつもりだ
とか言っているがそんななまぬるい事では
駄目だぞ。死ぬる迄やれ。
御前の体であって御前ではないのだ。
自分と言うものを持て。自分の一挙手一投足
が天に通ずる様行動せよ。
何事についても他人に遅れをとるな。
例え死に直面してもだ。
御前も今迄家にづうーと居て相当わがまま
に育って来た。御前にも悪いとは良く
譯っていた事と思うが。まあいい。
今度と言う今度は一番大きな親孝行
の出来る体になったのだからな。
此の上まだ親に心配に掛る様な事したら
腹を切って死ね。
御前は幸運にも選ばれて入校出来た。
而し、不幸にも選ばれざりし幾百幾千
万の同胞の居る事を心せよ。
又、うらみをのんで南海の底に沈んだ
幾千万の英霊に答えよ。
いゝか今更此んな事言わなくったって
よく解っている事と思うが。
御前の行動は御前自身で処して行く
のだぞ。やがては幾百数千万の部下を
指揮して作(策)戦する様になるのだ。
心して動作せよ。
今のその気持ちを何時迄も持って益々
決心を新にし奮闘せよ。
御前の健康と武運長久を
広島の地より祈る。
**********************

今回は葉書ではあるが”封緘葉書”と云うもので、実質4面に書くことが出来るもので、”檄”の量も多い。
割と大きめの文字でそこそこ綺麗なので読み易く、難読文字はなかった。

ありとあらゆる檄のオンパレードであるが、小生には何故か懐かしい響きなのである。
よくよく考えてみたら、以前勤めていた会社では案外普通にこんな檄が飛び交っていた。
・子供では無いのだ
・死ぬる迄やれ
・他人に遅れをとるな
・例え死に直面してもだ
・腹を切って死ね
・決心を新にし奮闘せよ
等々、日常的に浴びせられていたフレーズであり、夜寝るのが怖かった時期もあった。(寝るのが怖いと云うよりは目が醒めるのが恐怖だった。)サザエさんシンドロームも嫌というほど実感した。
それと全く同じ”ブラックの香り”である。

がしかし、同じ”ブラックの香り”はするのだが、片や戦地に向う実弟に”生きるために頑張れ”と飛ばす檄であり、もう一方は”給料欲しければ働け”と飛ばす檄である。持つ意味のレベルが根本的に違う。当時の軍隊では任務遂行しつつ生存するために必要な檄であったと思う。

現代社会における企業が当時の軍隊教育や軍人精神をそのまま取り入れる事には同意しないが、かといってこれら”軍隊”のエキスを全く排除してしまう事もどうかと思う。要は使い方であり、更に重要なのは上下の信頼関係である。

少し脱線したが、長男の康男と違って次男の敬が三郎に厳しい檄を飛ばすのは、年齢が近く(3歳違い)多分10年近くは一緒に幼少期を過ごしていた事と、病弱で軍人になれない悔しさを弟の活躍に託したかった事が大きいと思う。

三郎と敬 昭和15年頃か

振武台(陸軍予科士官学校)入校直後の三郎の日記発見!vol.1

遺品の中の手紙・写真等に混じって三郎の”素養検査ニ関スル筆記”と云うメモ帳があったのだが、ここまで内容を見ておらず気になったのでパラパラとめくってみたところ、最初から終盤までは各教練のノート(メモ)だったのだが、最後の20ページ位に入校直後の2月25日~3月8日までの日記及び落書きが見つかった。

これまで葉書や手紙の記述だけでは判明しない内容に関しては小生の判断や想像で記載していたが、それらの幾つかについてはこれらの日記に記載があったので訂正もしながら投稿してゆく。

三郎は2月24日に振武台(陸軍予科士官学校)に入校した様で実際に教練が始まったのは翌2月25日からだった。まずはその2月25日の日記から。

昭和19年2月25日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

***********************
昭和十九年
  二月廿五日

軍人生活第一日の朝だ。「起床」‼ の聲と共
に飛び起きたと云いたいが、毛布の中よりゆすぶり
出た。直ちに洗面。それが終って舎前集合。
雄健神社参拝。皇居 皇大神宮 故郷
遥拝。朝食。朝の自習
~英語の素養検査あり。不出来だ。
も少し勉強しておくべきであった。
後で聞くと語学優秀の生徒のみ試験し
たのだそうだ。午食。
午後、矢張自習~室にて自習。身上
調査あり。区隊長殿と面接す。
中学校の成績を下げない様に 又
武道をしっかりやる様に 又 三男
だからピンピンはねまわる様に 又
早く俗塵から脱する様にお話しがあっ
た。つづいて自習、夕食、入浴。夜は適意自習、反省。
It is long since I sow last.
***********************

・雄健神社:”おたけび じんじゃ”と読む。
ウィキペディアには以下説明がある。
【振武台・陸軍予科士官学校の営内神社である。 祭神は「天照皇大神、明治天皇、経津主命、武甕槌命、大国主命」と「陸軍予科士官学校出身将校及本校職員文武官戦没者」である(境内立札)。戦没者は1943年(昭和18年)時点で3032柱だったという。】
前年時点で3千人以上の戦没者だと云う事を生徒たちが知っていたかどうか分からないが、戦慄の数字である。小生含め現代の軟弱男子ならこの数字を聞いた時点で退校を考えるであろう。もっともそれ以前に受験する勇気があったかどうかも怪しいが…。

入学試験に英語は無かった筈だが入学後は授業があった様子。当時世の中では英語は敵性語として排斥運動が起きており、米国発祥スポーツであるプロ野球などは興行中止を免れるために徹底的に和訳用語に変更されたらしいが、実際には和訳できない用語も多く軍内部含め社会全体ではあまり浸透しなかったらしい。この辺りの状況は現在のどこかの隣国とよく似ている。

区隊長殿との面接の中での”三男だからピンピンはねまわる様に”の意味が不明。”家を継ぐ必要が無いからケガや死を恐れずガンガン行け”の意味であろうか…。
また”俗塵から脱する様に”とは”シャバの事は忘れろ”であろう。まだまだ若い少年たちである。本来ならなら彼女とデートしたり家族と旅行に行ったりと楽しいことが沢山ある時期であり、ホームシックになる生徒も沢山いたであろうことは容易に想像できる。指導する側としては単に厳しくするだけでなく、メンタルの部分からの指導が大変であったと思う。最終的には”信頼関係”なのである。

最後の英文も意味がよく分からない。
”sow”だと”種まき”となり???である。多分”saw”の間違いで”最後に英語(の教科書)を見てから時間が経ってしまった。(だから試験ができなかったので勉強しよう)”の意味ではないかと思う。

何十年も英語の勉強をしておらず、最近頻繁にグーグル翻訳のお世話になっている小生の見解なので正しいか否か保証はしない。(笑)

振武台(陸軍予科士官学校)入校直後の三郎の日記発見!vol.2

 

今回は日記シリーズ第二弾 昭和19年2月26日の日記なのだが、振武台二日目の日記はたったの5行しかない。

しかも翌27日の日記は25日の裏ページに書かれており、26日は破り取られたページに書かれて挟まった状態になっていたので、後から書かれたものと思われる。
忙しくて書き忘れたのかもしれない。

昭和19年2月26日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

******************
  二月廿六日
軍人生活第二日目。午前中は前日に同じ。
午後は身体検査。廿四日の
續き。内科一般、尿、等々検査
あり。今日ではん決が下るのだ。
******************

午後は一昨日の続きで身体検査があったようで、この検査結果に何らかの異常があったりすると”入学取消し”や”区隊変更”になる場合もあったらしい。
それを踏まえての”今日ではん決が下るのだ。”であろう。
以前投稿した中で父(芳一)が2月28日にとんぼ返りで学校訪問した事を記したが、ひょっとするとこの身体検査に於いて何らかの異常が見つかり、その件で学校側から呼び出されたのかも知れない。

これだけでは少々淋しいので、メモとして残されていた整理棚の様子や落書きをアップしておきたい。

まずは整理棚の様子。

三郎 振武台 整理棚の様子

最上段:剣道防具、柔道着、飯盒、背嚢、
 上段:帽子、衣類(外套等)
 中段:ひざあて、ひじあて、作業着、寝間着
 下段:ゲートル、石鹸、下着類、手袋、銃器手入具
 壁掛:水筒、麻袋、手拭い、襟布等干し

などが、整理整頓されている様子がわかる。
おそらく、毎日風紀委員がチェックし整理整頓されていないとこっぴどくやられたのであろう。小生も30年位前に”管理者養成学校”なるところでやられた記憶がある。会社の教育制度の一環であり当時半ば強制的に参加させられたカリキュラムであったが、今思えば良い経験であったと思う。

オマケであと2枚アップする。

これは”決意表明”のようなものか…。

三郎 決意表明書?

こちらは”落書き”。男子はやっぱり飛行機に憧れる。

三郎 戦闘機の落書き

17歳と云えばまだまだ幼さの残る歳である。本来あったはずの楽しい時間を犠牲にしてまでも国家や家族を護るために戦ってくれた先達の姿を知れば知るほど感謝するほかない小生だが、振り返って現在の我が国。果して国防に携わって下さっている方々に感謝出来ているだろうか…。

三郎 振武台日記 vol.3

 

三郎の振武台日記 第三弾は昭和19年2月28、29日の二日分

2月24日に入校以来まだ数日しか経っておらず、馴れない事だらけの中で奮闘している様子が良く解る。

まずは27日の日記から。

昭和19年2月27日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

*****************
二月廿七日
本日は軍服を着用するのだと勇んで
起きた。軍服を着、軍帽を着用す
ると名実共に豫科の生徒らしくなった。
十一時頃、父に逢った。これから当分
逢えないと思うと何となく変な気
持がしたが、父に軍服姿を見せて
非常に嬉しい。父も喜んで呉れたと
思う。それから、衣服類一切の適
合があって、色んなものをもらった。
官給品を無くすると榮倉に入る
のだと河村班長殿が仰言った。
大いに注意すべきものだ。
*****************

良く解らなかった部分としては最後から4~5行目の”衣服類一切の適合があって”の部分。”適合”ではおかしい様な気がするのだが、外に”適合”する語彙を思いつかなかった。サイズ合わせの様なものだと思うのだが、解かる方いらっしゃったら御教示乞う。

やはり軍服を身に着けるのは嬉しかったようだ。何と云っても制服を身に着けることで気持ちがシャンとする。しかも初めて着る軍服となれば一入であったろう。
しかも父に逢って晴れ姿を見せたとある。父子ともに嬉しかったであろう。

ここで訂正なのだが、以前の投稿では27日に父(芳一)は三郎に逢わないでとんぼ返りした旨の内容であったが、実際は面会していた。3月10日の芳一の手紙には”逢わずに帰ったのは済まぬ事をした”とあるのだが、どうやら三郎の友人に”逢わずに帰った”事を詫びているらしい。

”榮倉”は懲罰房のことであり軍隊にあったことは知っていたが、陸軍予科士官学校にもあったとは初めて知った。千人を超える生徒が共同生活をしている中で、皆同じ衣類を支給されるのであるから、悪意の有無はともかく”紛失”は頻繁にあったのではないかと思うが、それで営倉行きはかなり厳しい。三郎も”大いに注意すべきものだ。”と書いているが、全くその通りである。

続いて28日の日記。

昭和19年2月28日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

*****************
二月廿八日 月
起床後非常に忙しい。顔もゆっく
りはあらえない。も少し早く寝
具をたたむ様にならぬといけない。
午前中は学科の租(素?)養検査あ
り。大体やったつもりだが、どうだか。
それにつづいて小銃、銃剣の授与
式あり。小銃二五一九〇番
銃剣九九二一五番を授与された。
午後、体操の租(素?)養検査有りし
も変更されて小銃の手入を行
われる。銃に傷をつけると処
罰されるそうだと聞いて肝をひやす。
夜は自習。点呼、遥拝、就寝。
*****************

おそらく日記は就寝前に書いているのだと思うが、筆跡から察するにかなり急いで書いている印象がある。少しでも早く寝たいのであろう。当然文字も読み辛いが、何とか解読できた。

起床の号令から集合までどれ位の時間があるのか判らないが、かなり忙しい様子である。
布団をもう少し早くたためる様にならねばと書いているが、後の妹(芳子)の手紙の中に”兄さん(三郎)の嫌いだった床を私が敷いている”と云う一節があり、三郎は布団の敷き・たたみが好きではなかったようだ。(まあ、基本的に好きな人は少ないと思うが…。)

入学間もない時期なので最初の素養検査(三郎は”租”養と勘違いして書いている)が各学科に於いて実施されている。今日で云う”学力テスト”のようなものか。

その後に小銃・銃剣を授与されている。もちろんこれらも高価な官給品であり傷をつけたりすると処罰(多分営倉行き)の対象となった。

振武台の事をググっていたところ、NHKアーカイブスに 昭和天皇が振武台を行幸された時のビデオがあった。実際の訓練の様子等も撮影されており日記の内容等もイメージし易くなると思う。以下にリンクを張って置くので是非ご覧頂きたい。

チャプター【1】大元帥陛下 陸軍予科士官学校 行幸
因みに、昭和18年12月9日撮影 三郎が入校する2ヶ月半前の事である。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300569_00000&seg_number=004

三郎 振武台日記 vol.4

振武台日記 第四弾。

今回は2月29日の日記。

ここまでの数日の日記を見ると、寒い時期であることも手伝ってか”朝起きる時”の様子が度々記されている。

今も昔も”朝は辛し”なのか…。

 

昭和19年2月29日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

*****************
二月廿九日 火
夜寒くて餘り良く眠れず
顔が重くはれた様にて朝
食うまくなし。午前中
区隊長殿の勤務について
の学科。その前に
武道の租(素?)養検査。試合があ
り、少しあわててた様だったが
勝つにはかった。
午後体操の租(素?)養検査。体力の
少なきをつくづく知る。大いに力を
つけるべきなり。夜は自習
時間。非常に眠たい。晝の
疲れがでたのかも知れない。
*****************

2月29日 ん?
ここでこの昭和19年がうるう年だったことに気づいた。
そう、オリンピックイヤーである。

残念ながらこの年のオリンピック(開催地ロンドン)は大戦の影響で中止となっているのだが、遡ること4年前の昭和15年は元々東京オリンピックの開催が決まっていた。しかしこれも日中戦争等を理由に中止となっている。つまり厳密に云えば来年(令和2年)は東京で3回目のオリンピックが開催される年なのである。(まあ、昭和15年に開催されていれば昭和39年は他の都市になっていたと思うが…。)
更にもう少しググってみたところ、昭和15年前後には夏季に加え冬季オリンピックそして万国博覧会も日本での開催が一度は決まっていた。結果的には全て中止ないしは延期となってしまったが…。
当時欧米諸国でしか開催されていなかった大きな国際大会が日本で3つまとめて開催されようとしていたのである。これは驚くべきことで、日本国内の盛り上がりは想像以上のものであったろう。当時小学生だった三郎もそんな話題で大喜びしたことに違いない。
しかし、この東洋の島国の勢いを西欧諸国が大きな脅威と感じていたことは疑いの余地がなく、そしてこの”脅威”が太平洋戦争勃発の大きなファクターであったこともまた疑う余地がないのである。

さて日記に戻る。

自身も”非常に眠たい。晝の疲れがでたのかも知れない。”と書いている通り、相当つかれているのであろう。文字がかなり読み辛い。幸い日記は2週間分位あり内容的に同じ様な記述も多く大抵は推測で読むことができたが、単独で書かれたらギブアップ級のものも結構あった。

2月末の振武台の夜は寒さが厳しく寝不足が祟って”朝食うまくなし”とある。
戦時下の物資の乏しい状況下であるから、当然(?)生徒たちの部屋には暖房などなかったであろう。しかも写真で見る限りでは振武台の校舎は当時の小学校と同じ様な建屋のようであり、断熱(防寒)に優れていたとは到底思えないから相当な寒さであったと思う。
実際の所、この振武台は日中戦争の拡大や対米関係の悪化に伴い生徒数が増加したため元々の市ヶ谷台での対応が難しくなり、700日の突貫工事で完成させたと云ういわくつき(?)である。昨今の”〇〇パレス”と比べては失礼かもしれないが必要最低限の設備であったのではないかと思う。

加えて(一般国民よりは優遇されていたであろうが)食料事情も悪く、栄養状態も万全でない中の激しい訓練である。生徒たちにとって体調の維持管理は本当に大変であったろうと思う。

三郎 振武台日記 vol.5

三郎の振武台日記の第五弾。

入校後5日が経過し振武台での生活にも少しづつ慣れてきた様子。

今回は日記に加え、先日遺品整理をしていたところ陸軍予科士官学校が振武台に移転になった際の朝日新聞の切り抜きが出てきたのでそちらも投稿する。

まずは3月1日の日記から。

昭和19年3月1日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

********************
  三月一日 水
朝起床後大分動作が敏しょうに
なった様な気がする。だが仲々
急がしい。午前中は教
練の租(素?)養試験あり。天
気晴朗にして非常に気持良
し。だが昨日の体操がこたえて
体の節々がいたい。午後は二千
米マラソン。記録十七分三十一秒
も少しで上級の所惜しい事
をした。そのお蔭で体が又い
たくなった。が我ハ将校生徒なり
だ。中隊長殿の個人指導あり。力一杯決心を
述べた。火災呼集あり。
     (訓示)進んで常堀下に入ること
********************

概ね読めたのだが、最後の”進んで常堀下に入ること”の”常”が正しいかどうか分からない。”火災発生時に濠(堀)に入れ”の意味だと思うのだが…。

起床後の行動にも漸く慣れてきた様子。
激しい訓練も”昨日の体操がこたえて体の節々がいたい。”などと云いながらも”我ハ将校生徒なりだ”と自身を鼓舞しながら頑張っている。
因みに体操であるが、小生が高校生の頃にやっていた体操と大差ないものと思いきや、前回の投稿の最後に紹介したNHKアーカイブスの動画で見る限りそんな生易しい体操ではなく、かなり難度の高い運動をやっていることが分かった。あれは節々が痛くなるであろう。

2キロマラソンのタイムが17分31秒とあるが、普通にトラックを走るだけなら8~9分程度だと思うのだが…。この記録が本当なら恐らく行軍用の重装備をしたうえでか、或いは障害物のあるマラソンだったのではないだろうか。

続いて、昭和16年11月2日の朝日新聞の切り抜き。

昭和一六年十一月二日 陸軍予科士官学校 振武台へ移転時の新聞切抜

かなり読み辛いので多少長文ではあるが内容を以下に転記する。

***********************
陸軍豫科士官学校
 朝霞町[埼玉]に移転完了
   きょうから校務を開始

明治七年創設以来ここに六十有八年陸軍の鳳雛搖監の学舎として尚武の歴史と伝統を誇った陸軍予科士官学校は今回いよいよ思出深い市谷台を去って埼玉県北足立郡朝霞町に移転することになった、
今回同校移転の理由はさる昭和十二年当時の陸軍士官学校本科、豫科がそれぞれ独立して陸軍士官学校と同豫科士官学校の両校に分れ陸軍士官学校が神奈川県座間に移転した、現在の同校が既に市街地の真中に位置し近代戦闘方式を演練するには付近には適当な演習場がなく不自由を続けていたうえ将来皇軍の中核となる将校生徒らの精神教育の訓育上から見て市街地は芳しくないという二つの理由からしてすでに陸軍士官学校が相武台に移転した当時から東京近郊に皇軍将星の搖監舎に相応しい移転先を物色していたが候補地として朝霞ゴルフ場に白羽の矢が立ち今春以来建設を急ぎこのほどほぼ完成を見たので十月中旬から引越しを始め昨一日で引越しを終り、本二日からいよいよ木の香もかんばしい新校舎で校務を開始する運びとなった
朝霞ケ原の新校舎は朝霞ゴルフ場跡で西方には朝な夕な富嶽の靈峰を仰ぎつつ指呼の間に秩父の連峰を望み…土地の起伏、松樹林の点在…昔ながらの武蔵野の名残をとどめ風光明媚の好適地であり、演習上からも訓育上からも真に皇軍を背負う将校生徒の“鍛錬道場”に相応しい浄地である、校舎の敷地は四十万坪で付属練兵場は八十万坪、合して廣袤百二十万坪にわたっている、陸軍将校にとって極めて印象深い
陸の精鋭搖監の地『市谷台』の歴史を繙けば市谷台は旧尾張候の下屋敷跡であって明治七年十月二十七日『陸軍士官学校條例』が制定せられ従来あった兵学寮を改め陸軍士官学校として市谷に校舎を新築した、それがそもそもの『市谷台時代』のはじまりである
明治十一年六月十日新校舎が完成開校の式典をあげた(開港記念日)同年七月三日には畏くも明治天皇の初の親臨を仰いで第一期士官生徒の卒業證書授与式が挙行された、明治二十九年『陸軍幼年学校條例』が発布せられて従来の陸軍幼年学校を陸軍中央幼年学校と改称、大正九年八月十日時代の進運に伴い陸軍士官学校令を改定せられて本科、豫科の二科を置きこれまでの中央幼年学校は陸軍士官学校豫科となった、昭和十二年十月二日陸軍士官学校本科が独立『陸軍士官学校』として神奈川県座間に移転したので市谷台に新たに『陸軍豫科士官学校』が創設せられ現在におよんでいる
なお陸軍豫科士官学校跡の市谷台には陸軍省 参謀本部などが近く移る予定である
***********************

まず興味深かったのは、句点“。”が記事中に一つもなく、読点“、”或いは“無表記”となっていることである。句読点の使用は明治以降に始まったものらしいが、上記記事や投稿している手紙・葉書を見る限りその使用ルールはあまり明確になっていなかったようである。一見大きな影響は無い様にも思うが、細かい部分では文意の相違等が出てくるのも事実である。

難読と云うよりは小生の知らない文字・熟語が沢山出てきたので、恥を覚悟で以下に記す。
・鳳雛搖監(ほうすうようらん):鳳凰の雛がゆりかごいる様子のことで、将来有望な少年が大切に育てられる学舎を指す。
・靈峰(れいほう):意味は知っているがこの漢字(靈)は初めてみた。
・指呼の間(しこのかん):指差して呼べば聞こえるくらいの距離のこと。
・廣袤(こうぼう):幅と長さのこと。横縦。

建設に関しては”今春以来建設を急ぎ”とあり一年足らずで完成したような記事になっているが、ググった限りでは”700日で完成させなければならなかった”とあり日数的に大きな開きがある。”こんな短期間で完成させた”と軍部の威信を張りたかったのであろうか。

余談であるが、小生は40年ほど神奈川に住んでおり相鉄線の相武台駅も何度か利用したことがあるが、こんなに由緒ある地名だとは知らなかった。今度行ったらつぶさに散策してみたいと思う。

三郎 振武台日記 vol.6

 

 

 

三郎の振武台日記 第6弾。

今回は三月二日の日記から。

昭和19年3月2日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

*****************
三月二日 木
今日は非常に風が強い。寝台
の中で起床前窓ガラスがガタガタ
となっていたので乾布摩擦が気
にかかった。午前中は中隊長殿の
訓話。殊に皇室の御殊遇に対する
感激を永續させよと云われた。
其後葉書を五通ばかり書く。
午後校長閣下の閲兵あり。
非常に風強く砂塵モウモウ。
顔なんか真黒となる。外出服
装して嬉しかった。
それから入浴。氏名の注
記等あり。
*****************

一つだけ聞きなれない言葉で”御殊遇”だが、天皇・皇族に対する特別に良い待遇の事らしい。詳細は分からないが皇室典範等に則った作法や儀礼の事ではないかと思う。

寒風吹きすさぶ様子が窓ガラスの音から伝わり”乾布摩擦いやだなぁ~”と云う気持ちで目が醒めたようである。
今後の投稿にも記載するが、この日は校長であった牧野中将の退任式があったようなのだが、日記の内容から推測するに新入生は式に列席していない様子であり、その間に中隊長の訓示やら自由時間(葉書かき)があったと思われる。

午後の校長閣下の閲兵式には参列したようで、その際に外出用の制(軍)服を着ることができて嬉しかったと云う事であろう。

最後の氏名の”注記”がちょっと解らなかった。”衣服や持ち物に氏名を記入すること”だと思うのだが、現代では”記入”の筈で”注記”だと”注意書き”の意なのだが…。当時はこう云う言い方があったのか、或いは別の漢字なのか、御存知の方いらっしゃったら御教示乞う。