昭和19年3月16日 母(千代子)から三郎への手紙

母(千代子)から三郎への手紙。

三郎の陸軍予科士官学校入校後3回目の通信であるが、広島と学校(埼玉)の郵便配達の所要日数が3~6日(通信物の消印と三郎が付けていた到着日で判断。ひょっとすると学校内で滞留していた場合があるかも知れないが…。)と結構幅がある事を考えると、手紙が届くとすぐに返事を書いていた勘定になる。

千代子は自宅療養の状態で、体力仕事は勿論のこと手紙を書くことさえも”手が震えて思うほど書けない”と以前の手紙に書いているが、その病状の中での今回の5枚である。

昭和19年3月16日 千代子から三郎への手紙①
昭和19年3月16日 千代子から三郎への手紙②
昭和19年3月16日 千代子から三郎への手紙③
昭和19年3月16日 千代子から三郎への手紙④
昭和19年3月16日 千代子から三郎への手紙⑤

特に難読な部分は無かったものの、やはり体調が影響しているのか”誤字・脱字”と思われる様な部分が散見された。

解読結果は以下の通り。

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九日出しのハガキ、今日芳子のと一緒に
受取りました。お前も元気で
日々楽しく、学校の様子もわかって
何より安心しました。

三次地方も大分暖くなって来ましたが、
何分今年は三月が二度あるとか、
雪が思い出した様に降りますよ。
幸に三人共とても元気で
淋しいながらも夜分は父様の帰宅
を待っておこたをかこんでラヂオを聞て
床につきます。芳子も女学校の
受験日が二十三し(四?)から三日間とか。
四、五日前に願書を出した。私も
お天気がよろしいと他家には畠の
手入れ、ジャガイモの下ごしらえなど、
どんどんなさるが、私はまだそんな事
はお許しが出ないので家の中の仕事を
ぼつぼつやっています。ホルモン注射をして
居ます。足のだいく(るい?)のがよくなれば
申し分ないが、病み上がりはなかなかしっかり
しないそうだよ。別に心配してくれるな。

去る十二日だったか、藤井君のお母さん
が荷物を取りにお出になったよ。
何でも兄様へお嫁さんをとられて
近々美(?)州へ送られるらしい。其の時
の土産にお餅を持って来て下さった。
又お前に餞別と。餞別はお返し
した。高等学校受験は四年生は
第一次発表で駄目らしかった。藤井君
も駄目だったとか。今度はどの方を受け
られるのか荷物があせりて、ゆっくりされん
ので充分お話が出来なかった。お前の
写真が送ってほしいとか申して居られた。

三中の生徒は布野の方へ奉仕に出て
居るとか。一週間位修さんも
行って居る。幼年学校は三次の方の者
は一人もとられず、二年の級長汽車通の
者一人だったとか。小国のおばさんが申し
て居られた。小国のおじさんも召集で出られ、
金口進さんも召集がかかりましたよ。
湯川武文君、自転車やの息子ですよ。(召集です)
年の多い人や若い人や次々出られるよ。

お前の学校の道具が片付きません。何だか一人では
手がつけられん。思い出多くてね。

近頃兄様二人より何の様子もないが多忙
なのでしょう。様子がなければ元気だと
思っています。お父様が餞別を頂た
家をぼつぼつ夜分お礼にまわられて居る。
旧かん内藤井様の方へもいかれた。先日マスクなど
送りましたが受取りましたか。芳子もお前
が出てからは、お菓子は一つも食べない。配給もなし。
時々牛乳でパンを作る位な事。あまり食べた
がりもしない。変りたのを作っては思い出す
から何にも配給だけで足りておりますよ。

どうか躰に気をつけて、友人と仲よくしてね。
先生の教えを守りなさいよ。家の方の事は
心配いりません。芳子の入学を祈って居る。
では又御様子します。サヨナラ
※内祝を全部すめました。(済ましました?)
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以前の投稿にも書いた様に千代子は小生が生まれる前に他界しているので、具体的なイメージが無かったのだが、こうやって手紙を読んでいると”案外せっかちで細かい女性だったのかなぁ”と思ったりもする。ただ戦時下と云う異常な環境の中で子供の事に必死になるのは当たり前のことで、この時期だけの事だったのかも知れない。

要らぬ心配をさせまいとしながらも、息子を心配する自身の気持ちを制御できない状況が文面から読み取れる。
”安心した”と言った後に”淋しいながらも”とか”病み上りはなかなかしっかりしない”の後に”別に心配してくれるな”とか…。かなり情緒不安定な様子である。

三人の息子たちが家から離れてしまったのだが、残った末娘(芳子:小生の母)の事にも一寸だけ触れている。女学校の入学試験が一週間後に迫っており、そちらも気になっている様子。小生の記憶では母(芳子)は真面目なタイプではあったが秀才ではなかった筈(?)なので一層心配であったろう。彼女の書いた手紙も今後投稿してゆく予定なので見て頂ければ幸いだが、少々”どんくさい”感がある。(笑)

家庭内の近況から友人・ご近所の状況、そして二人の兄と妹の事などをとめどなく書いている感じであるのだが、ご近所のあちこちに徴兵の波が押し寄せている事を書きながら不安に陥ったのか(多分一旦書き終わった後だと思うが)5枚目の右端に書き加えられた内容が辛い。
「お前の学校の道具が片付きません。何だか一人では
手がつけられん。思い出多くてね。」

戦況悪化が加速し、南方方面各地で日本軍が玉砕。”史上最悪の作戦”と言われているインパール作戦が開始されたのがこの時期であり、最悪の状況の中で青年将校の輩出も急ピッチで行われたのである。

振武台(陸軍予科士官学校)入校直後の三郎の日記発見!vol.1

遺品の中の手紙・写真等に混じって三郎の”素養検査ニ関スル筆記”と云うメモ帳があったのだが、ここまで内容を見ておらず気になったのでパラパラとめくってみたところ、最初から終盤までは各教練のノート(メモ)だったのだが、最後の20ページ位に入校直後の2月25日~3月8日までの日記及び落書きが見つかった。

これまで葉書や手紙の記述だけでは判明しない内容に関しては小生の判断や想像で記載していたが、それらの幾つかについてはこれらの日記に記載があったので訂正もしながら投稿してゆく。

三郎は2月24日に振武台(陸軍予科士官学校)に入校した様で実際に教練が始まったのは翌2月25日からだった。まずはその2月25日の日記から。

昭和19年2月25日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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昭和十九年
  二月廿五日

軍人生活第一日の朝だ。「起床」‼ の聲と共
に飛び起きたと云いたいが、毛布の中よりゆすぶり
出た。直ちに洗面。それが終って舎前集合。
雄健神社参拝。皇居 皇大神宮 故郷
遥拝。朝食。朝の自習
~英語の素養検査あり。不出来だ。
も少し勉強しておくべきであった。
後で聞くと語学優秀の生徒のみ試験し
たのだそうだ。午食。
午後、矢張自習~室にて自習。身上
調査あり。区隊長殿と面接す。
中学校の成績を下げない様に 又
武道をしっかりやる様に 又 三男
だからピンピンはねまわる様に 又
早く俗塵から脱する様にお話しがあっ
た。つづいて自習、夕食、入浴。夜は適意自習、反省。
It is long since I sow last.
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・雄健神社:”おたけび じんじゃ”と読む。
ウィキペディアには以下説明がある。
【振武台・陸軍予科士官学校の営内神社である。 祭神は「天照皇大神、明治天皇、経津主命、武甕槌命、大国主命」と「陸軍予科士官学校出身将校及本校職員文武官戦没者」である(境内立札)。戦没者は1943年(昭和18年)時点で3032柱だったという。】
前年時点で3千人以上の戦没者だと云う事を生徒たちが知っていたかどうか分からないが、戦慄の数字である。小生含め現代の軟弱男子ならこの数字を聞いた時点で退校を考えるであろう。もっともそれ以前に受験する勇気があったかどうかも怪しいが…。

入学試験に英語は無かった筈だが入学後は授業があった様子。当時世の中では英語は敵性語として排斥運動が起きており、米国発祥スポーツであるプロ野球などは興行中止を免れるために徹底的に和訳用語に変更されたらしいが、実際には和訳できない用語も多く軍内部含め社会全体ではあまり浸透しなかったらしい。この辺りの状況は現在のどこかの隣国とよく似ている。

区隊長殿との面接の中での”三男だからピンピンはねまわる様に”の意味が不明。”家を継ぐ必要が無いからケガや死を恐れずガンガン行け”の意味であろうか…。
また”俗塵から脱する様に”とは”シャバの事は忘れろ”であろう。まだまだ若い少年たちである。本来ならなら彼女とデートしたり家族と旅行に行ったりと楽しいことが沢山ある時期であり、ホームシックになる生徒も沢山いたであろうことは容易に想像できる。指導する側としては単に厳しくするだけでなく、メンタルの部分からの指導が大変であったと思う。最終的には”信頼関係”なのである。

最後の英文も意味がよく分からない。
”sow”だと”種まき”となり???である。多分”saw”の間違いで”最後に英語(の教科書)を見てから時間が経ってしまった。(だから試験ができなかったので勉強しよう)”の意味ではないかと思う。

何十年も英語の勉強をしておらず、最近頻繁にグーグル翻訳のお世話になっている小生の見解なので正しいか否か保証はしない。(笑)

振武台(陸軍予科士官学校)入校直後の三郎の日記発見!vol.2

 

今回は日記シリーズ第二弾 昭和19年2月26日の日記なのだが、振武台二日目の日記はたったの5行しかない。

しかも翌27日の日記は25日の裏ページに書かれており、26日は破り取られたページに書かれて挟まった状態になっていたので、後から書かれたものと思われる。
忙しくて書き忘れたのかもしれない。

昭和19年2月26日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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  二月廿六日
軍人生活第二日目。午前中は前日に同じ。
午後は身体検査。廿四日の
續き。内科一般、尿、等々検査
あり。今日ではん決が下るのだ。
******************

午後は一昨日の続きで身体検査があったようで、この検査結果に何らかの異常があったりすると”入学取消し”や”区隊変更”になる場合もあったらしい。
それを踏まえての”今日ではん決が下るのだ。”であろう。
以前投稿した中で父(芳一)が2月28日にとんぼ返りで学校訪問した事を記したが、ひょっとするとこの身体検査に於いて何らかの異常が見つかり、その件で学校側から呼び出されたのかも知れない。

これだけでは少々淋しいので、メモとして残されていた整理棚の様子や落書きをアップしておきたい。

まずは整理棚の様子。

三郎 振武台 整理棚の様子

最上段:剣道防具、柔道着、飯盒、背嚢、
 上段:帽子、衣類(外套等)
 中段:ひざあて、ひじあて、作業着、寝間着
 下段:ゲートル、石鹸、下着類、手袋、銃器手入具
 壁掛:水筒、麻袋、手拭い、襟布等干し

などが、整理整頓されている様子がわかる。
おそらく、毎日風紀委員がチェックし整理整頓されていないとこっぴどくやられたのであろう。小生も30年位前に”管理者養成学校”なるところでやられた記憶がある。会社の教育制度の一環であり当時半ば強制的に参加させられたカリキュラムであったが、今思えば良い経験であったと思う。

オマケであと2枚アップする。

これは”決意表明”のようなものか…。

三郎 決意表明書?

こちらは”落書き”。男子はやっぱり飛行機に憧れる。

三郎 戦闘機の落書き

17歳と云えばまだまだ幼さの残る歳である。本来あったはずの楽しい時間を犠牲にしてまでも国家や家族を護るために戦ってくれた先達の姿を知れば知るほど感謝するほかない小生だが、振り返って現在の我が国。果して国防に携わって下さっている方々に感謝出来ているだろうか…。

三郎 振武台日記 vol.3

 

三郎の振武台日記 第三弾は昭和19年2月28、29日の二日分

2月24日に入校以来まだ数日しか経っておらず、馴れない事だらけの中で奮闘している様子が良く解る。

まずは27日の日記から。

昭和19年2月27日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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二月廿七日
本日は軍服を着用するのだと勇んで
起きた。軍服を着、軍帽を着用す
ると名実共に豫科の生徒らしくなった。
十一時頃、父に逢った。これから当分
逢えないと思うと何となく変な気
持がしたが、父に軍服姿を見せて
非常に嬉しい。父も喜んで呉れたと
思う。それから、衣服類一切の適
合があって、色んなものをもらった。
官給品を無くすると榮倉に入る
のだと河村班長殿が仰言った。
大いに注意すべきものだ。
*****************

良く解らなかった部分としては最後から4~5行目の”衣服類一切の適合があって”の部分。”適合”ではおかしい様な気がするのだが、外に”適合”する語彙を思いつかなかった。サイズ合わせの様なものだと思うのだが、解かる方いらっしゃったら御教示乞う。

やはり軍服を身に着けるのは嬉しかったようだ。何と云っても制服を身に着けることで気持ちがシャンとする。しかも初めて着る軍服となれば一入であったろう。
しかも父に逢って晴れ姿を見せたとある。父子ともに嬉しかったであろう。

ここで訂正なのだが、以前の投稿では27日に父(芳一)は三郎に逢わないでとんぼ返りした旨の内容であったが、実際は面会していた。3月10日の芳一の手紙には”逢わずに帰ったのは済まぬ事をした”とあるのだが、どうやら三郎の友人に”逢わずに帰った”事を詫びているらしい。

”榮倉”は懲罰房のことであり軍隊にあったことは知っていたが、陸軍予科士官学校にもあったとは初めて知った。千人を超える生徒が共同生活をしている中で、皆同じ衣類を支給されるのであるから、悪意の有無はともかく”紛失”は頻繁にあったのではないかと思うが、それで営倉行きはかなり厳しい。三郎も”大いに注意すべきものだ。”と書いているが、全くその通りである。

続いて28日の日記。

昭和19年2月28日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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二月廿八日 月
起床後非常に忙しい。顔もゆっく
りはあらえない。も少し早く寝
具をたたむ様にならぬといけない。
午前中は学科の租(素?)養検査あ
り。大体やったつもりだが、どうだか。
それにつづいて小銃、銃剣の授与
式あり。小銃二五一九〇番
銃剣九九二一五番を授与された。
午後、体操の租(素?)養検査有りし
も変更されて小銃の手入を行
われる。銃に傷をつけると処
罰されるそうだと聞いて肝をひやす。
夜は自習。点呼、遥拝、就寝。
*****************

おそらく日記は就寝前に書いているのだと思うが、筆跡から察するにかなり急いで書いている印象がある。少しでも早く寝たいのであろう。当然文字も読み辛いが、何とか解読できた。

起床の号令から集合までどれ位の時間があるのか判らないが、かなり忙しい様子である。
布団をもう少し早くたためる様にならねばと書いているが、後の妹(芳子)の手紙の中に”兄さん(三郎)の嫌いだった床を私が敷いている”と云う一節があり、三郎は布団の敷き・たたみが好きではなかったようだ。(まあ、基本的に好きな人は少ないと思うが…。)

入学間もない時期なので最初の素養検査(三郎は”租”養と勘違いして書いている)が各学科に於いて実施されている。今日で云う”学力テスト”のようなものか。

その後に小銃・銃剣を授与されている。もちろんこれらも高価な官給品であり傷をつけたりすると処罰(多分営倉行き)の対象となった。

振武台の事をググっていたところ、NHKアーカイブスに 昭和天皇が振武台を行幸された時のビデオがあった。実際の訓練の様子等も撮影されており日記の内容等もイメージし易くなると思う。以下にリンクを張って置くので是非ご覧頂きたい。

チャプター【1】大元帥陛下 陸軍予科士官学校 行幸
因みに、昭和18年12月9日撮影 三郎が入校する2ヶ月半前の事である。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300569_00000&seg_number=004

三郎 振武台日記 vol.4

振武台日記 第四弾。

今回は2月29日の日記。

ここまでの数日の日記を見ると、寒い時期であることも手伝ってか”朝起きる時”の様子が度々記されている。

今も昔も”朝は辛し”なのか…。

 

昭和19年2月29日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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二月廿九日 火
夜寒くて餘り良く眠れず
顔が重くはれた様にて朝
食うまくなし。午前中
区隊長殿の勤務について
の学科。その前に
武道の租(素?)養検査。試合があ
り、少しあわててた様だったが
勝つにはかった。
午後体操の租(素?)養検査。体力の
少なきをつくづく知る。大いに力を
つけるべきなり。夜は自習
時間。非常に眠たい。晝の
疲れがでたのかも知れない。
*****************

2月29日 ん?
ここでこの昭和19年がうるう年だったことに気づいた。
そう、オリンピックイヤーである。

残念ながらこの年のオリンピック(開催地ロンドン)は大戦の影響で中止となっているのだが、遡ること4年前の昭和15年は元々東京オリンピックの開催が決まっていた。しかしこれも日中戦争等を理由に中止となっている。つまり厳密に云えば来年(令和2年)は東京で3回目のオリンピックが開催される年なのである。(まあ、昭和15年に開催されていれば昭和39年は他の都市になっていたと思うが…。)
更にもう少しググってみたところ、昭和15年前後には夏季に加え冬季オリンピックそして万国博覧会も日本での開催が一度は決まっていた。結果的には全て中止ないしは延期となってしまったが…。
当時欧米諸国でしか開催されていなかった大きな国際大会が日本で3つまとめて開催されようとしていたのである。これは驚くべきことで、日本国内の盛り上がりは想像以上のものであったろう。当時小学生だった三郎もそんな話題で大喜びしたことに違いない。
しかし、この東洋の島国の勢いを西欧諸国が大きな脅威と感じていたことは疑いの余地がなく、そしてこの”脅威”が太平洋戦争勃発の大きなファクターであったこともまた疑う余地がないのである。

さて日記に戻る。

自身も”非常に眠たい。晝の疲れがでたのかも知れない。”と書いている通り、相当つかれているのであろう。文字がかなり読み辛い。幸い日記は2週間分位あり内容的に同じ様な記述も多く大抵は推測で読むことができたが、単独で書かれたらギブアップ級のものも結構あった。

2月末の振武台の夜は寒さが厳しく寝不足が祟って”朝食うまくなし”とある。
戦時下の物資の乏しい状況下であるから、当然(?)生徒たちの部屋には暖房などなかったであろう。しかも写真で見る限りでは振武台の校舎は当時の小学校と同じ様な建屋のようであり、断熱(防寒)に優れていたとは到底思えないから相当な寒さであったと思う。
実際の所、この振武台は日中戦争の拡大や対米関係の悪化に伴い生徒数が増加したため元々の市ヶ谷台での対応が難しくなり、700日の突貫工事で完成させたと云ういわくつき(?)である。昨今の”〇〇パレス”と比べては失礼かもしれないが必要最低限の設備であったのではないかと思う。

加えて(一般国民よりは優遇されていたであろうが)食料事情も悪く、栄養状態も万全でない中の激しい訓練である。生徒たちにとって体調の維持管理は本当に大変であったろうと思う。

三郎 振武台日記 vol.5

三郎の振武台日記の第五弾。

入校後5日が経過し振武台での生活にも少しづつ慣れてきた様子。

今回は日記に加え、先日遺品整理をしていたところ陸軍予科士官学校が振武台に移転になった際の朝日新聞の切り抜きが出てきたのでそちらも投稿する。

まずは3月1日の日記から。

昭和19年3月1日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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  三月一日 水
朝起床後大分動作が敏しょうに
なった様な気がする。だが仲々
急がしい。午前中は教
練の租(素?)養試験あり。天
気晴朗にして非常に気持良
し。だが昨日の体操がこたえて
体の節々がいたい。午後は二千
米マラソン。記録十七分三十一秒
も少しで上級の所惜しい事
をした。そのお蔭で体が又い
たくなった。が我ハ将校生徒なり
だ。中隊長殿の個人指導あり。力一杯決心を
述べた。火災呼集あり。
     (訓示)進んで常堀下に入ること
********************

概ね読めたのだが、最後の”進んで常堀下に入ること”の”常”が正しいかどうか分からない。”火災発生時に濠(堀)に入れ”の意味だと思うのだが…。

起床後の行動にも漸く慣れてきた様子。
激しい訓練も”昨日の体操がこたえて体の節々がいたい。”などと云いながらも”我ハ将校生徒なりだ”と自身を鼓舞しながら頑張っている。
因みに体操であるが、小生が高校生の頃にやっていた体操と大差ないものと思いきや、前回の投稿の最後に紹介したNHKアーカイブスの動画で見る限りそんな生易しい体操ではなく、かなり難度の高い運動をやっていることが分かった。あれは節々が痛くなるであろう。

2キロマラソンのタイムが17分31秒とあるが、普通にトラックを走るだけなら8~9分程度だと思うのだが…。この記録が本当なら恐らく行軍用の重装備をしたうえでか、或いは障害物のあるマラソンだったのではないだろうか。

続いて、昭和16年11月2日の朝日新聞の切り抜き。

昭和一六年十一月二日 陸軍予科士官学校 振武台へ移転時の新聞切抜

かなり読み辛いので多少長文ではあるが内容を以下に転記する。

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陸軍豫科士官学校
 朝霞町[埼玉]に移転完了
   きょうから校務を開始

明治七年創設以来ここに六十有八年陸軍の鳳雛搖監の学舎として尚武の歴史と伝統を誇った陸軍予科士官学校は今回いよいよ思出深い市谷台を去って埼玉県北足立郡朝霞町に移転することになった、
今回同校移転の理由はさる昭和十二年当時の陸軍士官学校本科、豫科がそれぞれ独立して陸軍士官学校と同豫科士官学校の両校に分れ陸軍士官学校が神奈川県座間に移転した、現在の同校が既に市街地の真中に位置し近代戦闘方式を演練するには付近には適当な演習場がなく不自由を続けていたうえ将来皇軍の中核となる将校生徒らの精神教育の訓育上から見て市街地は芳しくないという二つの理由からしてすでに陸軍士官学校が相武台に移転した当時から東京近郊に皇軍将星の搖監舎に相応しい移転先を物色していたが候補地として朝霞ゴルフ場に白羽の矢が立ち今春以来建設を急ぎこのほどほぼ完成を見たので十月中旬から引越しを始め昨一日で引越しを終り、本二日からいよいよ木の香もかんばしい新校舎で校務を開始する運びとなった
朝霞ケ原の新校舎は朝霞ゴルフ場跡で西方には朝な夕な富嶽の靈峰を仰ぎつつ指呼の間に秩父の連峰を望み…土地の起伏、松樹林の点在…昔ながらの武蔵野の名残をとどめ風光明媚の好適地であり、演習上からも訓育上からも真に皇軍を背負う将校生徒の“鍛錬道場”に相応しい浄地である、校舎の敷地は四十万坪で付属練兵場は八十万坪、合して廣袤百二十万坪にわたっている、陸軍将校にとって極めて印象深い
陸の精鋭搖監の地『市谷台』の歴史を繙けば市谷台は旧尾張候の下屋敷跡であって明治七年十月二十七日『陸軍士官学校條例』が制定せられ従来あった兵学寮を改め陸軍士官学校として市谷に校舎を新築した、それがそもそもの『市谷台時代』のはじまりである
明治十一年六月十日新校舎が完成開校の式典をあげた(開港記念日)同年七月三日には畏くも明治天皇の初の親臨を仰いで第一期士官生徒の卒業證書授与式が挙行された、明治二十九年『陸軍幼年学校條例』が発布せられて従来の陸軍幼年学校を陸軍中央幼年学校と改称、大正九年八月十日時代の進運に伴い陸軍士官学校令を改定せられて本科、豫科の二科を置きこれまでの中央幼年学校は陸軍士官学校豫科となった、昭和十二年十月二日陸軍士官学校本科が独立『陸軍士官学校』として神奈川県座間に移転したので市谷台に新たに『陸軍豫科士官学校』が創設せられ現在におよんでいる
なお陸軍豫科士官学校跡の市谷台には陸軍省 参謀本部などが近く移る予定である
***********************

まず興味深かったのは、句点“。”が記事中に一つもなく、読点“、”或いは“無表記”となっていることである。句読点の使用は明治以降に始まったものらしいが、上記記事や投稿している手紙・葉書を見る限りその使用ルールはあまり明確になっていなかったようである。一見大きな影響は無い様にも思うが、細かい部分では文意の相違等が出てくるのも事実である。

難読と云うよりは小生の知らない文字・熟語が沢山出てきたので、恥を覚悟で以下に記す。
・鳳雛搖監(ほうすうようらん):鳳凰の雛がゆりかごいる様子のことで、将来有望な少年が大切に育てられる学舎を指す。
・靈峰(れいほう):意味は知っているがこの漢字(靈)は初めてみた。
・指呼の間(しこのかん):指差して呼べば聞こえるくらいの距離のこと。
・廣袤(こうぼう):幅と長さのこと。横縦。

建設に関しては”今春以来建設を急ぎ”とあり一年足らずで完成したような記事になっているが、ググった限りでは”700日で完成させなければならなかった”とあり日数的に大きな開きがある。”こんな短期間で完成させた”と軍部の威信を張りたかったのであろうか。

余談であるが、小生は40年ほど神奈川に住んでおり相鉄線の相武台駅も何度か利用したことがあるが、こんなに由緒ある地名だとは知らなかった。今度行ったらつぶさに散策してみたいと思う。

三郎 振武台日記 vol.6

 

 

 

三郎の振武台日記 第6弾。

今回は三月二日の日記から。

昭和19年3月2日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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三月二日 木
今日は非常に風が強い。寝台
の中で起床前窓ガラスがガタガタ
となっていたので乾布摩擦が気
にかかった。午前中は中隊長殿の
訓話。殊に皇室の御殊遇に対する
感激を永續させよと云われた。
其後葉書を五通ばかり書く。
午後校長閣下の閲兵あり。
非常に風強く砂塵モウモウ。
顔なんか真黒となる。外出服
装して嬉しかった。
それから入浴。氏名の注
記等あり。
*****************

一つだけ聞きなれない言葉で”御殊遇”だが、天皇・皇族に対する特別に良い待遇の事らしい。詳細は分からないが皇室典範等に則った作法や儀礼の事ではないかと思う。

寒風吹きすさぶ様子が窓ガラスの音から伝わり”乾布摩擦いやだなぁ~”と云う気持ちで目が醒めたようである。
今後の投稿にも記載するが、この日は校長であった牧野中将の退任式があったようなのだが、日記の内容から推測するに新入生は式に列席していない様子であり、その間に中隊長の訓示やら自由時間(葉書かき)があったと思われる。

午後の校長閣下の閲兵式には参列したようで、その際に外出用の制(軍)服を着ることができて嬉しかったと云う事であろう。

最後の氏名の”注記”がちょっと解らなかった。”衣服や持ち物に氏名を記入すること”だと思うのだが、現代では”記入”の筈で”注記”だと”注意書き”の意なのだが…。当時はこう云う言い方があったのか、或いは別の漢字なのか、御存知の方いらっしゃったら御教示乞う。

陸軍予科士官学校 牧野校長閣下

 

 

先日、三郎が陸軍予科士官学校に合格した際の”合格通達書”とその後学校への着校日を通達する”著校ニ關スル件達”を新たに発見したのでご紹介する。

 

”著校ニ關スル件達”と”合格通達書”

昭和18年11月に教育総監部より合格通達書が届き、その後日付は不明だが(多分年明け後か)著校ニ關スル件達が届いている。注目したのは、合格通達書では”昭和19年3月下旬頃に着校せよ”と記してあるのだが、著校ニ關スル件達では”2月24日に着校せよ”と1ヶ月早くなっている。当時、将校不足は相当深刻で少しでも早く将校を輩出せねばならなかった状況の表れであろう。

著校ニ關スル件達に記名のある学校長の牧野四郎と云う方は陸軍中将で、三郎の入校と入れ替わるタイミングで学校長を退任されるのだが、将に前回投稿した三郎の日記の日付”昭和19年3月2日”に牧野校長の離任式があり、その中で「花も実もあり、血も涙もある武人たれ」と訣別の訓辞を残している。
ただ、日記では”校長閣下の閲兵あり”としか書かれておらず、多分未だ入校式の済んでいなかった三郎たち新入生徒は離任式に列席せずその後の閲兵式のみ参列したと思われる。

牧野中将はこの後激戦地のフィリピン・レイテ島の第16師団長に赴任し、ダグラス・マッカーサー率いる連合軍と激戦するも翌昭和20年8月10日師団は壊滅。その際「余が敵弾に倒れたる時は余の肉を喰いその血をすすりて糧となし最後の一兵となるともレイテ島を死守し君恩に報ずべし」と云う「死守の訓辞」を遺して自決すると云う壮絶な最後を遂げられた軍人である。

三郎の日記の冒頭には”今日は非常に風が強い。”とあり、牧野中将の行く先が風雲急を告げる様を予感させる。享年52歳であった。 合掌。

三郎 振武台日記 vol.7

 

三郎の振武台日記 第7弾

 

今回は三月三日の日記である。

 

昭和19年3月3日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

********************
三月三日 金
今日は風無く穏かな一日であった。
昨日の風はどこへやら。午前中は注
記、及び大掃除あり。外は非常
に気持よし。春めいて来た。
誰の(も?)家のことを考え居るらしい。少し
家の事を思い出した。この様な日
に模型飛行機を飛ばしたらと慨嘆。
午後は体操あり。生れて始めて
両木の上を通った。思ったよりやさし
いが、しかし矢張り恐ろしい。
将校生徒たるものはこんなことを言
ってはいけないが、お腹が空いてい
けなくなった。誰も食物の話をし
ていけない。こんなことではどうするか‼
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冒頭に起床時の様子が書かれていないので、漸くストレスなく起床以後の動作が可能になったと言う事だろうか。それとも毎日のことなので慣れてしまったからなのか…。

体操に関して”両木”という文言が出ているのだがこれが良く解らない。
まず読みが”りょうぎ”なのか”ふたぎ”なのか。またその設備がどういったものなのか。
多分高い場所で行動をするのであろうことは想像できるのだが。
とりあえず、遺品の中にそれらしきものも含め体操の写真があるのでアップしておく。

陸軍予科士官学校体操訓練風景1
陸軍予科士官学校体操訓練風景2
陸軍予科士官学校体操訓練風景3

1か2のどちらかか、或いはこれらとは異なるものなのか。御存知の方いらっしゃったら御教示乞う。
ただ、全生徒がこんなに素晴らしくこなせたとは思えないので、三郎も相当苦労したのではないか。
特に1の写真など”えっ?”と云うほど殆ど曲芸の域である。こんな体操ができる生徒が何人いただろうか…。
下手をすると打撲・捻挫等は日常茶飯事だったのでは無いかと思う。

はしたないとは思いながらも”腹減った”と嘆いている。
食べ盛り、育ち盛りの若者たちばかりであったが、食料難の時代である。お代わりの制限があったのではないかと思う。その状況は理解していても”腹は減る”のである。何とも辛かったであろう。飽食の時代に育つことが出来た小生世代は感謝せねばならない。

あと”この様な日に模型飛行機を飛ばしたらと慨嘆。”とあるが、当時の模型航空教育に関しては次回の投稿にてご紹介する。

飛行機少年 三郎 ~模型航空教育~

前回の三月三日の日記の中にあった模型飛行機に関する記述について。

小生も知らなかったのだが、当時小学校~旧制中学校では”模型航空教育”という教科があり、模型飛行機制作やグライダーでの滑空訓練等の教育が行われていた。勿論、航空機(戦闘機)の自国開発製造を行う上での国策であった。
特に昭和16~19年頃までは空前の模型飛行機ブームでこの間に1000万人の児童・生徒がこの教育を受けたらしい。
したがって当時の青少年は非常に航空機への関心が高く、それに関する知識も豊富であった。
三郎も御多分に漏れず飛行機が好きだったようで、以前の投稿にも上げたように落書きで戦闘機(ゼロ戦?)を書いたりしている。(冒頭に再掲載)
また、中学三年の時には模型飛行機の滞空時間を競う大会で三等に入賞して表彰されている。(賞状添付)

模型飛行機競翔大会賞状

蛇足だが、第三学年、三原三郎、三等、第三回、十一月三日、三次中学校と”三”が7個もある賞状も珍しいのでは…。

今後の投稿の中にも出てくるが、約一年間の教育期間を終えると航空兵科と地上兵科とに分かれて進学するのだが、やはり航空兵科が人気であった様子である。但し、学力以外にも高い身体能力が必要とされたため、地上兵科に比べ難易度は高かったらしい。

「たまにはこんな天気のいい日に模型飛行機翔ばしたいなぁ~」無邪気な少年の一面が顔をのぞかせている。