三郎 振武台日記 vol.8

 

三郎の振武台日記 第八弾

 

今回は三月四日の日記から。

 

昭和19年3月4日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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三月四日 土
本日五時四十分起床。直ちに舎前点呼位置で
軍人に賜りたる勅諭の奉読
式あり。軍人たる者の一日も忽
にすべからざるをつくづくと
覚える。その後續いて実務
の整頓の検査。中隊長殿
午後検査に来られる。
手にヒビが切れて
非常にイタシ。これも洗濯
するから手の油気が無くなる
所為だろう。銃の溝中の
検査あり。「傷ナシ」との事。
大いに今後注意すべきなり。
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今回の日記は急いで書いたのか殴り書きの感がある。つまり読み辛かった。

まず”軍人に賜りたる勅諭の奉読式あり”とある。いわゆる”軍人勅諭”の音読であるが、そもそも”軍人勅諭”の内容をちゃんと読んだことが無かったので今回精読してみた。
小生の感想としては、確かに”国家の爲に命を惜しむな”と云う多少”命”を軽んじていると感じられる部分もあり全てを肯定できるものでは無いが、国家を思う気持ちや人間関係の考え方などは現代社会においてもう一度見直すべき部分も含まれていると思う。
以下に参考サイトのURLを載せておくので、内容の是非はともかくまずは一度読んで頂くことをお勧めする。
原文はかなり難解だが最後の方に現代文訳があるので、そちらを読んで頂ければ良いと思う。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%99%B8%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E4%BA%BA%E3%81%AB%E8%B3%9C%E3%81%AF%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%82%8B%E5%8B%85%E8%AB%AD

6~7行目の”実務の整頓”が何だか解らない。”実務”ではないのかも知れないが、適当な文言が思い浮かばなかった。

”手にヒビが切れて非常にイタシ。”とある。当たり前の事であるが洗濯は自前で洗濯機など無い時代であり、寒い時期の冷水での手洗いであればさぞ手荒れも酷かったであろう。
当時も軟膏等の塗薬はあったと思うが、使っていたのかどうかは分からない。

”銃の溝中”も”溝”の字がちょっと怪しいが多分”ライフリング”とよばれる銃身内のらせん状の溝のことだと思うのだが…。違うかもしれない…。

三郎の振武台日記 vol.9

 

 

今回は三月五日の日記から。

入校後初めての日曜日。のんびりできたからだろうか、字が丁寧で読み易い。

 

昭和19年3月5日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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三月五日 日  雪一日中
本日は日曜日だ。何となく嬉しい。起床
後直ちに床をとるのもうれしい。外は
銀世界だ。雪だ。少し驚いた。三次の
事を思い出した。皆とコタツ…等と話した。
日朝点呼後は今日はどんなことをしても
よいとの事。午前、午後とも寝台に入
って休養をとった。来週へのエネルギー
の蓄積だ。ここに一つ将校生徒らしく
ない事を一つ行った。晝食時、飯を餘
計食った(菜が無く飯だけで)お蔭
でお腹が少し変だった。こんなことは
今後絶対やるまい。父も食物と運
動に気を付けるべしと。岡部先生も
云われた。二年生の人は外出された。
俺達も早く外出したいものだ。明日は
入校式だ。それから三月九日の東京行
がまちどおしい。
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先日投稿した内容の中に、入校式の様子を写真入りで紹介させて頂いたが、その時点では今回の日記に気付いていなかったので、雪がいつ降ったのかわからなかったのだが、これがたまたま前日に降ったものだと分かった。

昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校第六十期生徒入校式 前日に積もった雪が残る中で

三郎の生地の三次は広島県の中では結構雪の降る地域であり懐かしく思ったであろう。

先日の日記で”腹がへってしょうがない”旨書いていたが、この日は上級生が外出したりした関係でご飯が余っていたのか、昼食時腹いっぱい食べた様だが結果的には”腹八分”が重要であることを再認識させられたらしい。

食事で思い出した話をひとつ。
小生が小学生の頃は毎年年始参りで、母(芳子)に連れられて三郎伯父さんのお宅へお邪魔していたのだが、お節料理を皆で頂いていた時に三郎伯父さんが
”軍隊(陸軍予科士官学校)じゃぁのう、食事中に突然「右腕負傷!」と号令がかかるんじゃ。そしたら全員左手だけで食べるんじゃ。また暫くしたら「両腕負傷!」と号令がかかって全員が後ろ手を組んで口だけで食べにゃいけんのんで。マサヒロ(小生の名前)もやってみるか?”と云って大笑いをしたことがあった。
戦時中の辛い経験だったと思うのだが、あの時の伯父さんの笑い声はどちらかと云うと懐かしむ気持ちの方が強かったのではないかなぁ…と思い出す。

折角の日曜日ではあるが、新入り生徒達には外出許可は出ず、終日寝床にいた様である。しかしながら、外出してゆく上級生を羨ましく思いながらも疲れた身体を休められることを喜んでいる様でもある。

三郎 振武台日記 vol.10

 

今回は三月六日の日記から。

この日は三郎たち新入生の入校式の日で、日記の内容からも興奮覚めやらぬ様子が覗える。
幕末の尊王攘夷に燃えた志士と同じ”ナショナリズム”と云う感情であったのだろう。
そして、このナショナリズムこそが当時の将校生徒たちに与えられた唯一の感情の発露だったのかも知れない。
※入校式の様子は、5月9日投稿の「昭和19年3月6日 陸軍予科士官学校(振武台)第六十期生徒入校式の様子」の添付写真をご覧願いたい。

昭和19年3月6日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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三月六日 月
本日は俺にとっては一生涯忘れ得ぬ
歴史的な日だ。即ち軍人に正式になった
日だ。校長閣下代理幹事閣下
の厳かなる命下「谷川尚以下四千七百
二十三名は陸士予の第六期生徒を命ず」
とあり、それから生徒隊入隊式有り。
御真影奉拝アリ。此の日の
感激一生なんで忘られん。この感激
を頭にきざみこんで我が修養の
鞭となさん。あゝ遂に予士の
生徒となったのだ。皇国日本を
背負う青年将校の奨学地たる
予科の生徒となったのだ。此の上
は一意専心やるぞと盟う。
******************

四行目の”谷川尚”は代表生徒の名前であろう事は解かるのだが合っているか自信がない。
また、最後の行の”やるぞと”の部分も良く解らなかった。まあ、大勢に影響はないと思うのでこのままスルー。

”此の日の感激一生なんで忘られん”など、意識してかどうか解らないが、文章も漢文チックになっておりかなり幕末の志士風になっている。
因みに、三郎も読んだであろうと思われる、昭和19年2月15日出版の「通俗幕末勤皇史(徳富太郎著 目黒書店刊)」が祖父の遺品の中にあったので、その表紙だけアップする。

通俗幕末勤皇史(徳富太郎著 目黒書店刊)

 

  身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
             留め置かまし 大和魂

吉田松陰の辞世の句は今も昔も若者たちの心をかきむしる…。

 

 

三郎 振武台日記 vol.11

 

 

三郎の振武台日記 第11弾

 

今回は入校式翌日の三月七日の日記から。

昭和19年3月7日 三郎の日記

修正・削除部分が多くて少々読み辛いが、特に難読文字は無かった。

解読結果は以下の通り。

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 三月七日 火  曇
本朝は一般に起床が後レ
タ。起床ラッパが聞えなかった。こんな事
では不可ない。最少し緊張を要する。
午前中 中隊長殿の訓話あり。
修学の心得は大いに有意義であ
ると思う。特に修学の態度は
「将校生徒ナリ」と云う事を忘れな
いことであるということは必も肝心で
ある。
上級生に対する心構え等も
守るべき良い道だと思う。
夜、母より書簡あり。読みて家の
事を考え、不覚にも涙浮かぶ。何
だ女々しい。我は将校生徒なり だ。
*******************

当時の国語授業の影響なのか、時折カタカナ文が顔を出す。
今後投稿する三郎の手紙には漢字とカタカナだけのものもあり、パソコンでの変換に苦労した。

起床ラッパが聞えない程熟睡していたと云う事の様だが、昨日の入校式での興奮と緊張が疲労となって出たのかもしれない。

中隊長の訓話の内容がどんなものだったのかハッキリとは解らないが、「修学の心得」や「上級生に対する心構え」等の言葉から推し量るに以前投稿した内容にあった「軍人勅諭」を元にした訓話であった様な気がする。それらを総括すると「我は将校生徒なり」になるのだろう。

三郎 決意表明書?

夜、部屋に戻ったら母(千代子)からの手紙があったとある。
以前投稿した”昭和19年3月4日 母(千代子)から三郎への手紙”である。
我が子を軍隊に獲られた母親の悲しみと息子に要らぬ心配を掛けまいとする心情が入り混じった手紙であったが、それは三郎にも伝わったようで故郷を思いながら涙している。

現代の様な単なる一人暮らしであっても親にとっては淋しく悲しい気持であるのに、戦時中の軍隊への上京である。母と息子の心情は察してあまりある…。

 

三郎 振武台日記 vol.12

 

今回は三月八日の日記からなのだが、このメモ帳にある日記はこの日を最後に終わっている。

一応、「三月九日」の記載は最後の部分にあるのだが…。

別のノートに続きを書いたのか、或いは止めてしまったのかは不明である。

昭和19年3月8日 三郎の日記

解読結果は以下の通り。

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三月八日 水 晴 大詔奉載日
昨夜は少し寒かった。身体を横にし
ては不可ない事をつくづく覚った。
だが、今朝は起床は第一番であった。
嬉しい。これを続けよう。
午前中 区隊長殿の靴の手入れ、ソノ他
の学科、実際、等あり。又もや
軍隊の小さな事までも系統的
整理的に書物までになっているの
に驚く。十三時より大詔
奉載式あり。中学校の式
とは一寸が異うが米英撃
滅の決意を新たにした。その後区
隊長殿の禮式令の学科有り。そ
の後理髪に行く。理髪の早い
のに驚く。明日の参拝が嬉しい。
明日の晴天を祈る。
******************

”不可ない”は”いけない”だが、多分現代では全く使われていないだろう。

”身体を横にしては不可ない”とは、掛布団と身体との間に隙間が出来て寒いからと云うことであろうか。それにしても結構な寒さではある。

”起床”に順位があったようである。おそらく集合場所への整列の順位なのではないかと思うが。また数千人にもなる生徒全員の中でなのか、学年或いはクラス全員の中でなのか…。詳細は不明であるが、何にしても1番は嬉しいであろう。

7行目の”実際”の意味がちょっと解らなかったのだが、その後に続く”軍隊の小さな事までも系統的整理的に書物までになっているのに驚く”の内容からすると”軍隊の実際の現状”と云った意味の教科なのではないかと思うが…。もし御存知の方がいらっしゃったら御教示乞う。

”大詔奉載式”とは太平洋戦争完遂を目指して開戦直後の昭和17年1月2日に制定された国民運動のこと。開戦日に当たる毎月8日の”大詔奉載日”に行われた集会の様なもので、当時の内閣告諭には”官公衙、学校、会社、工場等において詔書奉読式を行ふこと”とあるので、ほぼ全国で一斉に行われていたようである。
小生も小学校の先生から「昔は朝礼で全校生徒が皇居の方に向って最敬礼をしていた」と云う話を聞いたことがあるが、こんな話をしていたと云うことは”日教組”に染まっていない先生だったんだなと思う。
まぁ、こういった行事が行われていたのだから、”米英憎むべし”の感情が生まれるのは当然の事であったろう。
因みに本日(令和元年五月二十六日)はアメリカのトランプ大統領が国賓として国技館で大相撲を観戦し、取組後の表彰式では”米国大統領杯”の授与を行った。今昔を感じた今日この頃である。

令和元年5月26日トランプ大統領大相撲観戦し米国大統領杯授与

明日9日は三郎たち新入生は東京へ行き、皇居・靖国神社・明治神宮へ参拝し入校報告をすることになる。この様子は今後の三郎から父(芳一)への手紙にてご紹介する。

 

昭和19年3月18日 妹芳子からの葉書 

三郎の振武台日記が続いて少し間が空いてしまったが、今回から手紙・葉書へと戻る。

今回は末の妹の芳子からの葉書。

芳子は小生の母であり、当然性格や考え方など充分知っていると思っていたのだが、こうして子供の頃の葉書を読んでみると気付かなかった面も色々見えてくる。
まぁ、考えてみると実際母と暮らしたのは18歳までで、その後二十数年間は年に数回会う程度で電話でもそんなに頻繁に話すことも無かったわけで、本当はあまり母の事は知らなかったのかも知れない。

昭和19年3月18日 芳子から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

**************************
兄ちゃん、お便りありがとうございました。
三次の気候も大分良くなりました。今日(十七日)から
口頭試問の練習が始まりました。女學校の試験
は三月二十三日から三月二十五日までです。口頭試問は練
習したのでもうなんともなくなりました。
四月も近づいて来てもう桜の花のつぼみもほころび
かけています。あたりの山々も大分緑色にかわり
かけて来ました。士官學校愉快でしょう。遠いか
らちょっと行こうと言う事も出来ません。行く
には警察の許可がいるのでめんどうな事です。
急行も乗られなくなります。私の東京行きも
だめになりました。ではお體を大切にして下さい。
又お便りします。さようなら
**************************

まだ、12歳の時の葉書であるから当然内容も幼い…のだが、ちょっと幼過ぎないか?と云うのが息子である小生の正直な感想である。

大体にして、ワンセンテンスが短く「~した」とか「~です」のいわゆる「ですます調」は小生が小学生の頃に芳子から揶揄されていた部分で、今でもトラウマになっているのである。
それがどうだ。揶揄していた張本人が「ですます調」ではないか。
まあ、恋人や友人ではなく実兄への手紙であるから、変にかしこまったのかも知れないが…。

女学校の入学試験が目前に迫っている。これは家族全員が気にかけている心配事で、家族それぞれの手紙にも状況の確認や報告が挙がっている。

「士官學校愉快でしょう」は笑える。
三郎の振武台日記でもご紹介したように、大変厳しい訓練で鍛えられている三郎も「愉快でしょう」と云われてはやるせない。多分父(芳一)あたりから「楽しく元気にやって居るよ」位の話をされたのであろう。
また、少し前に父が2度ほど陸軍予科士官学校へ行っているが、どうやら芳子も行きたかったらしい。当時の国内の状況からすれば到底無理な話で「次の機会に…。」とあしらわれたと思われる。

母が生きているときにこの話を知っていれば、振武台に連れて行ってやりたかったなあと思う。

 

昭和19年3月19日 康男(長男)から三郎への手紙

 

 

今回は長男の康男から三郎に宛てた葉書から。

 

最初の部分に父(芳一)が言伝を加えている。

昭和19年3月19日 康男から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

***********************
拝啓 (お父さんが書添える。大膳さんの所にはお礼を
取られぬ。ハガキで礼を云って出せ。
岩井柳作さん所へもハガキ出せ。急ぐ訳でもないが、
近所ハ大体お礼に廻った。)
野山も春めき、陽気を覚える候となったが、
其後御前も元気一杯研鑽に励んでいる
事と思う。家の方も一同無事、夫々の道に
奉公している。兄さんも本日の日曜、久方振りの
全休で帰宅休養を攝っている。御父さんは
日曜廃止で本日も御出勤。芳子も試験間近で
登校した。御前が入校して家もめっきり淋し
くなった様だ。御前の書斎はそのままにしてある。
予科士の生活にももう相当慣れた事と思うが、
何時でも明朗に、元気よくやる事だ。充分体
に気をつけた上でね。 では又。     敬具
***********************

相も変わらず芳一の字は小さくて読み辛い。
確かに小生が小学生だった頃、ちょくちょく我が家に来ては庭の手入れなどやっており、性格的に”マメ”であることは知っていたが、字が小さいのはあまり記憶がなかった。

言伝の内容としては、三郎の陸軍予科士官学校への入校及び上京への餞別を頂いたご近所さんにお礼を届けて廻ったが受取って下さらないお宅があるので、三郎の方からお礼の手紙出す様にとの由。

手紙・葉書が主たる通信手段であったので当然現代の我々よりは文字を書く機会が多く、またその作業には慣れていた筈だが、今小生の手元には当時三郎が書き損じたと思われる葉書が10枚程ある。おそらくもっとあったのではないかと思うが、忙しい日々の中での大変な労力である。つくづく便利な世の中になったものである。手書きの葉書など年賀や暑中見舞いで”お変わりありませんか?”と書く程度で、宛名に至っては何年も書いていない小生である。

さて、本題の康男の葉書である。

この年の3月1日付で船舶司令部の船舶練習部学生となって訓練を受けていた康男が久し振りの完全休養日で帰宅していたらしい。当時広島市に住んでいたが実家の三次は70キロ程しか離れていないので、鉄道で2時間程であったと思う。前日夜に出れば結構ゆっくりできたであろう。

のんびりするには幸いだったかも知れないが、折角の日曜なのに父は出勤、妹は学校、残っている母も床に伏していたのではないかと思うと逆に淋しかったであろう。
だからと云う訳ではないだろうが、三郎への手紙になったのかも知れない。
内容的にも様子を報せ三郎の健康を気遣う”普通”の手紙である。

このひと月ほど前の昭和19年二月に所属していた船舶司令部での集合写真があるのでアップしておく。因みに裏書には

広島市宇品町
 暁第二九四〇部隊村中部隊髙井隊
  将校見習士官少尉候補者
 第二次要員編成記念
    於 学庭
  昭和十九年二月吉日

とある。

19年2月暁二九四〇部隊 前列一番左が康男

昭和19年3月22日 三次中学の先輩 陸軍士官学校Yさんからの葉書

 

今回は三次中学の一学年先輩で既に陸軍士官学校(神奈川の相武台)生徒であったY先輩からの入校を祝福する葉書から。

以前の投稿で陸軍予科士官学校(振武台)が完成した当時の新聞の切抜きをご紹介したが、元々東京の市谷台にあった士官学校が神奈川の相武台に移転。その後市谷台に残っていた予科士官学校が埼玉の振武台に移転しており、三郎の一学年先輩にあたるYさんは陸軍士官学校の生徒であった。

昭和19年3月22日 Y先輩から三郎への葉書

解読結果は以下の通り。

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星、輝く御紋章の下に、金に輝く星を
見事かちえられたること、誠にお目出度く
存じます。期もよし六十期。一大勇猛心
を発揮して武将街道を驀進せられん
ことをスタートの必要なるは何事にも
同じ。今三中十九期の児玉中佐殿が
士校にいられる。じゃがさんと同期。高崎
の演習地にて御会いした。君の云う通り先輩
に負けず頑張ろう。では又。
********************

4行目の驀進の「驀」は葉書の文字と若干異なるが他に適当な字が見当たらなかった。略字か誤字ではないかと思う。他に難読部分は無かった。

児玉中佐と”じゃがさん”も三次中学の先輩の様である。生徒が全国津々浦々から集まっているからこそ、同郷の先輩・後輩の繋がりが強かったのであろう。

この葉書は士官学校から出されたものであり、宛名書面に「検閲済」の印が押されている。だからと云う訳かどうか解らないが、あたりさわりのない無難な内容になっている。
同級生と先輩と云う違いもあるので一概には言えないが、以前投稿した同級生からの手紙にあった進学や故郷の話等は書かれておらず「余計なことは書かない」と云った空気が感じられる。
一説によると当時の検閲に関しては「膨大な量の手紙や葉書を内容まで全て検閲するのは無理があり実際にはそれ程厳しくはチェックされていなかった」という話もあるが、少なくとも軍関係施設では厳しく実施されていたようで、それなりの効果はあったと思われる。